本編では
14-
15回と2度にわたって
ATGを取り上げてきたわけだが、いかがだったろうか。その後、映像作家でこの
[三月劇場]を運営している
石原から貴重な証言のメールが届いた。以下はその抜粋である。
松本俊夫さんから伺ったところによると、[薔薇の葬列]と[絞死刑]がATGが製作に加わるようになった初めの映画なわけだけど、その時、松本さんは、"何でもいいからともかく明るく楽しいのを作ってね。初めてなんだから暗いのはヤだよ"ってATGからつよーく言われてたんだそうです。で、力いっぱい笑ける映画になるように努力したそうです。大島さんもたぶん同じように言われてたんでしょうね。まぁ、少なくとも最初の頃は、ATGはなるべく明るく楽しいATGを目指してたわけですね。
なかなか、興味深い話である。もしかしたら、[男はつらいよ]は低予算の実験映画として
ATGからリリースされていたかもしれないのだ。
ところで、
この連載で
ATGを取り上げてみたら、と言ってくれたのが、そもそも
石原である。
石原は、いうまでもなく、この
[映画の食卓-僕の食卓] を掲載しているわが
[三月劇場] の同人の一人だが、彼は、
松本さんが大阪万国博覧会で発表した
[アコ]という作品でコンピュータ
アニメーションが使われていたのを見て自分もコンピュータ
アニメーションをやりたいと固く決心をし、現在はそれを職業にしているのである(本人の望む形かどうかは別として)。
僕が彼と知り合ったのは高校時代だったが、
石原は
アニメーションを描けるようになるため美術部に入部し、なおかつ、コンピュータの基礎になる数学で将来論文を書くためにはと(
*00)、数学の世界の国際共通語であるフランス語を独学で習得していた。さらに、こうした本来高校の授業と関係無い作業に時間を当てるため、授業中のノートは早稲田速記を使って書く(これを覚えるほうがよっぽど労力だと思うのだが)といった具合に徹底していた。やがて大学院を修了し某国立
広島大学の先生となった
石原は、京都の
さる短期大学に新設される映像の学科で
松本さんが教授になるという話を聞いて、そこへ誘いの声がかかったものだからとうとうその学校の先生となってしまったのだ。というわけで、こういった証言が出てくるのである。
ちなみに、現在は
のがみさんと同じ
水戸に住んでおり、某
常磐大学の先生になっている。先日会った時には "
パンテオンにかかった映画は夫婦して全部見るようにしている" と言っていたので、
水戸在住の方は知らず知らずのうちに顔見知りになっている可能性があると思われる。
さて、その
石原のリクエストに
個人映画の食卓というのがあった。ただ、個人映画というと星の数ほどもあり、世間にも流通していないためここで取り上げたからといって、作品が分からない場合がほとんどだろう。そこで、ごく個人的な話で恐縮だが、今回は自分の関わった作品を話題に取り上げることにする。
僕の関わった最初の個人映画はインタビュー形式のビデオだった(ビデオだから個人映画とは言えないかもしれないが)。よく行く喫茶店に顔を出していた
TBSのアシスタントディレクターの上田さんという人が撮ったもので、その中で僕は、日本で最初のまんが評論家(本職は美術評論家)と呼ばれた
石子順造さんと、巴川沿いの喫茶店で対談をしたのだ。
石子さんはちょうどその前の週に
NHKの番組で、大島渚監督と [忍者武芸帖] の対談をしていたばかりだったので、高校2年生だった僕はずいぶん緊張していた。なにせ、いきなり呼ばれて、誰と何を話すのかも聴かされていなかったのだ。
石子さんは僕のことを高校生だからと言って馬鹿にせず、真剣に話をしてくれたのが印象的だった。そのとき話したのは唐十郎や土方巽たちの話が多かった。演劇以外のことになると僕にはちんぷんかんぷんだったのだ。
この当時ビデオなどというものはきわめて珍しく、そのビデオセットもどこかの電気屋がデモンストレーション用に買ったものをレンタルで借りてきていたような記憶がある。このビデオが結局完成したのかしなかったのかは知らない。その後見た記憶がないから、完成しなかったのだろう。それとも、
石子さんがすぐに亡くなられたため、完成できなまなったのだろうか。
いかがであろうか。出演した本人も観たことが無いのだ。こういう個人映画はきっと誰も観たことがないに違いない。
高校2年の終わり頃に、今回の冒頭から話に出ている
石原と知り合いになった。
石原は当時
[無限のうた] というアニメーションを制作していて、僕も高校3年の春にはこの映画のいくつかのシーンに出演している。
[無限のうた]は、30年たった現在でも
石原の代表作の一つであり、つい先ごろもどこかのイベント(注
03)で上映されていたはずである。
今思い出したが、資金がなくてフィルムが買えない石原に僕が撮り残したフィルムをあげたことがあった。
石原はそのフィルムを巻戻してアニメーションを重ね撮りしたため、僕の撮った女の子たちの実写と受精する精子のアニメーションとが組み合わさって妙にエロチックだった(注
02)。それにしても、僕は
8mmカメラなんて持っていなかったのに、誰のカメラでそんな映像を撮っていたのだろう。
その
石原と高校を卒業した年に撮ったのが(企画はその前の年から)
[距離]というイメージフィルムで、その時には完成できなかったが、
石原はそのあとも3年か4年か、ともかくかなり長い間にわたって撮り続けていたようだ。もしかすると現在も撮影されているのかもしれない。とにかく
石原は気が長いのだ。
そういえば、秋田でもこの
[距離]を撮影したことがあった。それについてはあの
ギバザの証言をしてくれたひろみさんから、こんなメールがきている。
そう言えば、大学時代、映画にもださせていただきましたね。あれは森島さん絡みだったかなあ。佐藤くんのへやの天井からいろいろなものをぶら下げて撮影した時の記念写真(?)をいまも大切にとってあります。森島さんたちのおかげで、本当に楽しい学生時代でした。
これも本人はすっかり忘れていたことだった。
[距離]は撮影の過程で大量の屑フィルムを発生させてきた。それらのフィルムは、当時は
茨城大学にいた、これも高校の同級生で同じく
[三月劇場]の同人の
森和彦の手に渡り、全く別の作品となって、いろいろなイベントで上映されていたらしい。残念ながら、これも自分が出演しているにもかかわらず観たことが無いのだ。ただ、後にこのフィルムの1フレームが、仙台のあるミニコミの表紙になったのだけは見たことがある。縁というのは不思議なもので、このミニコミの編集長は、僕が高校時代に詩の朗読会で共演したことのある秋亜綺羅さんだった。
森は仙台で秋さんと知り合ったのだが、僕と秋さんとの関係は知らなかったようだ。この秋さんは実は、
寺山修司の
[書を捨てよ町に出よう] に出演していた人で、...。
この話しは芋づる式にどこまでも続いていきそうなのだが今回はここまで。
最後にレシピだが、
[距離]を
筑波で撮った時に
石原と食べたのがインゲンのからし酢あえ。インゲンを茹でて、それに豚肉のゆがいたのか乾煎りしたのをからし酢であえるだけのものだ。
僕は18歳を過ぎるまで、刺激物が苦手だったので、洋からしが食べられるようになると一時期その手の料理をよく作って食べていたのだ。このインゲンのからし酢あえ、できれば特濃酢と粉の洋からしを使って強烈な味に仕上げていただきたい。もしかしたら、情熱らしきものに浮かされて訳のわからない幻想のような映像をただひたすら追いかけていた僕たちの感覚が再現できるかもしれない。
[距離]は、制作ノートの一部を除いては、残念ながらお見せする機会もなさそうだが、同じ時期に幻を固定しようと試みた、
詩真集[幻想都市詩篇]はウェブ版が作られていて、ここでも公開されている。
インゲンのからし酢あえをつまみにビールでもやりながら、今も遥かな
[距離]の世界におつき合いいただけたら幸いだ。
森島です。
[映画の食卓-僕の食卓]の番外編をまたもお送りします。
[映画の食卓-僕の食卓]は、今回おかげさまで第104号を発刊した
[とら新聞]に連載されているものですが、この番外編は基本的には本誌に掲載されない、ウェブ
[三月劇場]だけのバージョンです(これまでの番外編は本誌104 号に掲載されましたが)。
近況報告ついでにみたいな感じで、メールを下さったことのある方々へ送っております(ついでみたいで申し訳ありません。あっ、やっぱりついでではないか)。
いつもは、
[とら新聞]の関係の人にだけ配っているのですが、今回はまあメールをいただいたことのある方には無差別に出してみようかと。人によっては初めての方もいるでしょうし、めんどくさいから確認もしませんでしたが、
森島なんかキライだ、という方もいるかもしれません。まあ、よろしかったら一つ読んでみてください。
ことしも県の高校演劇の発表会があって、一日だけ練習につき合ってきました。たった一日でどうにかなるものではないのですが、
使用前使用後程度には変わってくれます。本番は比較的評判がよかったそうでほっとしました。