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忍びの者 (情報収集) |
情報の収集と云うことを語ろうとすると、どうしても、忍者(隠密)の話をしなければならなくなってしまう。
忍びの者の仕事には間と諜とがある。間諜と呼ばれるのもこのためである。
間は敵中に潜入して破壊活動をするものであり、諜は敵の情報を探索するものである。
前者の方が暗殺や放火など派手な活動であるので、劇画などのストーリーの中心になっているが、
本来の役目は後者の方である。
忍術書は、聖徳太子が「志能便」(しのび)を使ったのが起源であると述べ、
楠木正成は伊賀者四十八人を雇い、三組に分けて十六人ずつを常時京都に潜入させて
情報を探らせていたと書いているが、これらの真偽は多分に怪しい。
しかし、戦国時代に入ると、戦国大名たちは敵情を探るために盛んに忍者を使用した。
彼らは色々な名前で呼ばれている。
「しのび」(忍)、「くさ」(草)、「かまり」(屈)、「らつぱ」(乱波)、
「すっぱ」(透破、素破、水波)などなどである。
また、大名によっては特殊な名前で呼んでいる。
北条氏康は「風魔」、武田信玄は「三つ者」、上杉謙信は「軒猿」、豊臣秀吉は「木陰(こかげ)」と呼んでいる。
そうした中で、伊賀地方、甲賀地方の地侍や郷士の間で、忍びの技術が次第に組織的集団的に高められてゆき、
名人と云われる人たちも輩出し、また、徳川政権成立期に彼らが家康の下で活躍したので、
やがて、伊賀・甲賀が忍術の正統と云われるようになってゆく。
江戸時代初期、彼らは伊賀組同心、甲賀百人組などとして、外様大名の動向の探索に当たった。
薩摩の鹿児島城の大玄関の前の大棕櫚の下に、密かに「隠密御用心」と書いた紙を入れた箱を埋め、
剛腹の島津家久をも震え上がらせた話は有名である。
敵情を探るために敵中に忍者を忍び込ませる時期に応じて二種類がある。
一つは、敵対関係にない平時から忍び込ませるもので、これを「遠入り」と云う。
もう一つは、現実に敵となってから忍び込ますもので、これを「近入り」と云う。
近入りでは、既に敵も充分に警戒しており、
さほどの機密情報を得ることはできないので、遠入りの方が上策とされる。
このような遠入りの忍者のことを、伊賀流では「影」あるいは「桂」と云う。
彼らは、時には、親子二代、更には三代にわたって敵中に住んで、その使命を達成することもある。
これを「里隠れ」と云う。敵中に故郷を作るのである。
そこに、縁者が居れば好都合であるが、そうでなければ、その地で生まれたが、
故あって国を離れた者が戻って来たように装い、菩提寺まで作ってしまい、その地で妻を迎え子を作る。
そして、伝手を求めて敵將に仕え、抜きん出た忠誠ぶりを示して相手を信用させるのであると云う。
情報を収集すると云うことが、並大抵なことでないことを考えさせるものである。
情報がこれほど乱れ飛んでいる現代においても、本当に知りたい情報は容易には得られるものではない。
相当の努力が必要なのである。