戻る 真田女忍者 : 歩き巫女  (情報収集)


(1) 歩き巫女
平安時代の末頃、 源平争乱の頃、 後白河法皇は、 白拍子たちによって当時歌われていた今様 (いまよう) 歌謡を掻き集めて集成し、 「梁塵秘抄」 (りょうじんひしょう) と名付けた。 言わば、 当時の流行歌謡集である。 その中の364番は、 老いた母が幼い我が娘を思って涙を流す歌である。
「わが子は十余になりぬらん 巫 (こうなぎ) してこそ歩くなれ ・・・ 」
ここに、 巫してこそ歩くなれ = 歩き巫女 (あるきみこ) をして各地を回っている。
そして、 「歩き巫女」 とは、 特定の神社に属しないで各地を遍歴し、 祈祷 ・ 託宣 ・ 口寄せ (霊媒) ・ 巫女舞いなどを行って生計を立て、 大道芸人 ・ 売春婦を兼ねる者もある、 さすらいの遊女である。
 この歩き巫女の中から、 戦国時代に女忍者 (くのいち) が発生した。 歩き巫女の姿を借りて諸国の情報探索を行った女性たちが生まれてきた。

(2) くのいち
 忍者の仕事は 「間」 と 「諜」 である。 「間」 は敵中に忍び込んで破壊活動を行うものであり、 「諜」 は敵の情報を収集探索することである。 女忍者の仕事は専ら 「諜」 である。 現在、 「くのいち」 のイメージとして定着している姿、 すなわち、 黒ずくめの忍者装束をして刀を背に負ったような姿、 更には、 ミニスカート風の着物に縄帯 ・ 網タイツなどという姿は全くのフィクションに過ぎない。
 彼女らは敵の屋敷や家に下女や女中として入り込み、 働きながら普段見聞する情報を収集し、 それを 「つなぎ」 (連絡役) の人に報告する。 情報を得るために色仕掛けが行われると云うイメージも後世のものであり、 必ずしも色仕掛けが行われると云うものでもない。

(3) 望月千代女
 このように諜報活動を専らに行う女忍者として、 歩き巫女を用いたのが、 戦国時代の武田信玄である。
 戦国時代には、 孤児 ・ 捨て子 ・ 迷い子などが大量に発生した。 それらの中から優れた少女を数百人も集めて、 歩き巫女に養成し、 隠密として全国各地に放った。 信玄が、 その養成と元締め管理を命じたのは、 信州佐久郡の豪族望月盛時の若き未亡人望月千代女 (もちづきちよめ) であった。
 彼女は近江国甲賀の甲賀五十三家の筆頭望月家の娘で、 信濃国佐久郡の望月本家の盛時に嫁ぐ。 盛時は武田信玄の甥に当たるが、 第4次川中島合戦で戦死し、 千代女は若くして未亡人になる。 信玄は、 彼女が甲賀忍者の家の出身であることを買って、 彼女に 「甲斐信濃二国巫女頭領」 を命じて、 歩き巫女の養成のために信州小県郡祢津村 (現東御市祢津) の古御館に 「甲斐信濃巫女道」 の修練道場を開かせ、 一人前になった歩き巫女たちを全国に送った。 歩き巫女は 「ののう」 とも呼ばれた。 現在も祢津には 「ののう小路」 が残り、 「巫女さんの墓石群」 (写真) が残っている。

(4) 滋野三家
 信濃国佐久平 ・ 上田平には滋野一族が住んでいた。 平安時代の初期に、 仁明 ・ 文徳帝の後宮に子女を送って、 勅撰詩文集 「経国集」 の編纂にもたずさわった滋野貞主 (しげのさだぬし) に始まる名族である。
 その末裔が信濃守、 あるいは信濃御牧の牧監となって現地に土着したもののようである。 滋野一族は後に海野、 祢津、 望月の3家に分流する。 これを滋野三家と呼ぶが、 真田氏はこれらのうちの海野氏の流れである。
 従って、 天正10年3月、 武田氏が滅亡した後、 信玄が作り信玄のために働いた祢津村の歩き巫女集団は、 その多くが、 望月氏と同族である真田氏によって引き継がれたものと考えられる。
 かくて、 真田三代の歴史の裏では、 男性の忍者 (男と云う字を分解してタジカラとよんだとも云う) のみでなく、 歩き巫女たちの女忍者がうごめいたものと考えられる。
 真田幸村 (本名 : 信繁) の家臣として講談などの中で活躍する真田十勇士の中に、 海野六郎 ・ 根津甚八 ・ 望月六郎の名がある。 これはまさに、 真田氏と同族の滋野三家の姓である。 これを見ても、 滋野一族はこぞって真田勢となっているものと見られる。
 かくて、 望月氏が宰領する信濃巫女もまた真田忍者の中の構成員であったと思われる。 真田一族は彼女たちがもたらす各地の情報を分析して、 その去就を変転させ、 秀吉をして表裏比興の者 (くわせ者の意味) と言わしめたものと思われる。

(5) 真田十勇士
 ちなみに、 真田十勇士とは次の人たちであるが、 その半数は架空の人物である。

真田十勇士実在性モデル
 猿飛佐助 架空 上月佐助 (木下藤吉郎の家臣猿飛仁助の子孫) 
 霧隠才蔵 架空 霧隠鹿右衛門 (伊賀忍者百地三太夫の弟子)
 三好清海入道  架空 三好政康 (阿波の三好三人衆の一人)
 三好伊三入道  架空 三好政勝 (三好政康の弟)
 穴山小助 実在か?  穴山信君 (武田旧臣) の縁戚
 由利鎌之介 実在か?  
 筧十蔵 実在か? 
 海野六郎 実在 
 根津甚八 実在 
 望月六郎 実在 

 講談などの中で、 幸村の部下として活躍する真田忍者は猿飛佐助と霧隠才蔵の二人であるが、 これらは上表に見るように架空である。 実際に、 真田家臣として働いた忍者としては、 次のような名が知られている。

 実在の真田忍者  主君
 禰津信政 真田忍者集団の頭領 幸隆 ・ 昌幸 
 出浦盛清 出羽清種の次男、 吾妻忍び衆を統率 昌幸 ・ 信幸
 横谷幸重 出羽清種と共に真田忍者集団の頭領 昌幸 ・ 信幸
 割田重勝 忍びの達人と云われる。 出浦盛清に殺される  昌幸
 唐沢玄蕃 伊那忍者 昌幸 ・ 信幸
 鷲津佐大夫  昌幸

 ただし、 いずれも、 主君は幸村 (信繁) 以外であり、 幸村の配下の忍者ではない。 しかし、 これを見れば、 幸村配下の忍者の実体をおぼろげながら、 推察することが出来よう。



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