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本当のスパイは姿を現さない (情報の収集) |
大阪城が落城し、淀君・秀頼の母子が自害するその日まで、豊臣方でありながら、
その後、徳川政権下の江戸時代 250年間を通して大名であり続けた希有なる家が2家だけある。
青木一重を藩祖とする麻田藩と、伊東長次を祖とする岡田藩である。
一重も長次も、どちらも七手組の組頭の武将である。
すなわち、豊臣秀吉、そして、秀吉の没後は秀頼の馬廻り、親衛部隊七組約1万人を率いた猛将である。
彼らの任務は秀頼の身辺を護ることである。
従って、東西が激突した関ヶ原の役でも、彼らは大阪城にあって動くことはなかった。
そして、大阪の陣でも彼らは大阪城に籠もっていた。
どうして彼らは、豊臣滅後も許されて命を長らえたのか。
いや、それのみならず、小なりとは云え大名の列にまで加えられたのか。
青木一重の場合は、大阪冬の陣の後、大阪方の使いとして駿府に赴いた帰りに、京都で足止めされ拘束されてしまい、
夏の陣の時は、大阪落城の報せを京都で聞くことになり、彼はその場で剃髪してしまう。
その後、徳川家康に召し出され、摂津国豊島郡内1万石の旧領を安堵されるのである。
それと云うのも、実は、一重は、秀吉に仕える以前、家康に仕えたことがあり、
しかも、浅井朝倉と織田徳川が戦った姉川の戦いでは、
朝倉義景軍の猛将真柄十郎左衛門を討取って勝利の契機を作ったことがあり、
家康はその勇猛を惜しんで敢えて京都で足止めにしたのである。
ところが、伊東長次の場合は、これとはまた異なっている。
彼は冬の陣の時も夏の陣の時も大阪城を護っていた。
そして、夏の陣の時、いよいよ大阪も最後と思われた時、彼は手兵を率いて大阪城から出撃する。
やがて、大阪城にあがる火の手を見て、城と運命を共にすべく城に帰ろうとするが、
今度は徳川方の兵に阻まれてかなわず、遂に帰城を諦めて高野山に入り、ここで自害すべく検視役の到着を待っていたところ、
家康の所からの使いの趣は、全く意外にも、罪を許して備中国下道郡を中心とした旧領を安堵すると云うものであった。
それは、 15年前の関ヶ原の役の時に、関東小山にいる家康へ石田三成の挙兵を報せた功を大なりとしたためであると云う。
かくて、伊東長次の子孫は、その後 10代、 250年、山陽道が高梁川をわたる川辺村の岡田に陣屋を置き、
石高約1万石の岡田藩として廃藩置県まで存続する。
しかし、私は、この話の中の 「三成挙兵を内報したため」 と云う件を、どうも納得することが出来ない。
それと云うのは、三成の挙兵を家康に通報したのは、この伊東長次だけではなく、他に何人もいるからである。
よく知られている所だけを拾っても、増田長盛や前田玄以などの名を挙げることができる。
従って 「三成挙兵の内報の功」 と云うのは、当たり障りのない公式説明に過ぎず、
本当の理由は、隠された別の所にあるように思えてならない。
恐らく彼は、大阪城の中に仕掛けた盗聴器の役割を家康のために行って、城中の人の動き、
会議の模様などを、関ヶ原以前から大阪の陣に至るまでの長期間、約 15年、継続的に、
時々刻々と家康の耳に入れていたのではないかと思えてならないのである。
「老士談録」 なるものの中に、京都所司代板倉勝重は家臣の朝比奈義次を、伊東長次の配下として大阪城に潜り込ませ、
城中評議の内容を毎日京都に報告させたとあることによる。
そして、本当のスパイは伊東長次に他ならず、朝比奈義次は単なる連絡役であろうと私は思うのである。
本当のスパイは決して姿を現すものではない。
(2004年6月)