資料シート●各科目

シネマトグラフ
Cinématographe

http://www.infonet.co.jp/apt/March/syllabus/bookshelf/C/Cinematographe.html




 1894年に、フランスのLumière兄弟(リュミエール、兄Augusteおよび弟Louis。▽図)は、新しい方式のプレーヤを完成した。



([Gronemeyer]より)

 Lumière兄弟の父のAntoineはもともと画家だったが、ダゲレオタイプ(Daguereotype。当時の写真の手法の一つ)に興味をもつようになり、スタジオを開いて写真の研究を始めた。Louisはこの時期から父の研究に参加していた。
 そのうちに、一般の人々が自分で写真を撮るようになり、ガラス乾板(当時の写真の記録体)が商品として流通するようになったので、Antoineはリヨン(Lyon)にガラス乾板を作る会社を開いた。
 1894年に、Antoineはパリ(paris)でキネトスコープ(Kinetoscope)を知った。キネトスコープはまだ出荷されるようになったばかりだった。そして、Antoineは兄弟にキネトスコープのようなシステムを開発してみるよう勧めた[Wikipedia]パリのあるキネトスコープパーラのオーナから、キネトスコープのプレーヤの改造を頼まれたとも言われている。
 キネトスコープでは複数の観客が同時に一つのタイトルを見ることができなかった。したがって、観客を増やすためにはそれに対応できる台数のプレーヤをメーカのEdison社から借りて来なければならなかった。また、タイトルがプレーヤの中に固定されているので、新しいタイトルを見せたければまた新しいプレーヤが必要だった。
 Lumière兄弟の新しいプレーヤは、フィルムの像を、キネトスコープのようにアイカップスクリーンに映す代わりに、アーク灯と水レンズを使って機械の外のスクリーンに映すことができるようになっていた(▽図)。



シネマトグラフの上映
([NHK]より)

 これなら、プレーヤを何台も借りておかなくても、一度に大勢に(ただし同じタイトルの)キネトスコープを見せることが可能になる。
 しかも、Lumière兄弟のブレーヤはパーツを交換してカメラとして使うことさえできるようになっていた(そののちしばらくこの機能は失われていたがビデオカメラが現れて復活した)。キネトスコープではカメラは提供されていなかったが、これによって誰もが自由にビデオのタイトルを制作できるようになった。



シネマトグラフのプレーヤ/カメラ
([NHK]より)

 Lumière兄弟は、この新しい方式をシネマトグラフ(Cinématographe)と名づけ、それをテアトル(Theatre=劇場。▽図右)という会場で公開し始めた。



テアトル
([NHK]より)

 現在の映画はシネマトグラフが発展したもので、そのしくみや特性は、(音が出るようになり色がついたことを除いては)本質的にほとんど変っていない。

 シネマトグラフの最初の興行は、パリのキャピュシーヌ通り14にあるグラン-カフェの地下のサロン-ナンディアン(Salon Indian=インドの間。セラーだったとも[Gronemeyer])を会場にして1895年の年末に行なわれた。グラン-カフェは、オペラ座(Le Opera)とマドレーヌ寺院との中間に位置する有名なレストランで、その付近は当時のヨーロッパでは指折りの賑やかな区域だった(今でも)。
 入場料は1フラン(今で約20円。ちなみに今のフランスの映画の入場料は20〜30フラン)だった。そして、数秒〜数十秒ぐらいの長さの、今の映画を基準に考えればかなり短い10本ほどのタイトルを30分のプログラムにまとめて上映した。
 会場の定員は100名だったが、初日の観客は35名(30名とも)しかいなかった。しかし、会期の間に話題が広がって、それから1週間の間に延べ2500人がシネマトグラフを見に集まった。

 映画はこの興行(初日は1895年12月28日、土曜日)をもって誕生したとされているが、技術としてのシネマトグラフはそれ以前に完成していて、Lumièreたちは1895年02月13日には特許を取得している。また、03月22日にはパリ国立産業振興会館で学術的発表として[工場の出口]の上映の実演が行なわれた。一般公開の直前にも特別招待試写会が行なわれている。
 12月28日の意義は、大幕のスクリーンによって多数の観客が同時に一つの作品を鑑賞できるようにするために、会場に観客を集め、入場料を受け取って興行を行なうという、社会的な制度としての映画が誕生した日になったということにある。

 シネマトグラフが成功すると、Lumière兄弟はプレーヤ/カメラの生産に乗り出した。



シネマトグラフのポスタ
スクリーンには[散水係]が映されている

 映画の興行ではキネトスコープが先行していた合衆国については、1896年06月18日にニューヨークで最初の興行が行なわれた。

 シネマトグラフの日本での最初の興行は、1897年02月15〜28日に、大阪の南地演舞場で行なわれた。夕方の05〜11時に8本のタイトルが日替わりで上映された。
 この興行は、のちに京都の実業家になる稲畑勝太郎によるもので、稲畑は、フランスに留学していて知り合ったオーギュスト-Lumière(兄の方)から、シネマトグラフを紹介されていた。
 翌年には東京でも神田の川上座で興行が行なわれた。この時の入場料は8銭だった。

 Lumière兄弟も、Edisonと同じく多くのタイトルを独自に制作した。
 95年12月の初日には、[リヨンのLumière工場の出口]、[荒天の海で(または海水浴)]、[赤ちゃんの言い争い]、[ラシオタ駅への列車の到着]、[カード遊びをするLumièreと軽業師トレウィー]、[塀の取壊し]が上映された。さらに、同じ時期には[金魚釣り]、[赤ちゃんの食事]、[調教場の兵士たち]、[リヨンのビュブリック通り]、[水をかけられた散水係](1895年)、[写真会議委員の上陸]、[リヨンの消防隊](1896年)、[雑草の一掃]、[岸を離れる小舟]、[雪合戦]などの作品が上映された。
 これらの作品は、最初の興行に備えて、Louisが中心になって制作しておいたものだった。

 世界で最初の映画は、[工場の出口](▽図左)だとされている。工場の門が開き、そこから仕事を終えた労働者たちが出て来るようすが写されている。この作品は遅くとも1895年03月22日以前に撮影されたと考えられている。
 [工場の出口]は彼らの工場で撮影された。
 この作品には、実は三つの異なるバージョンが存在する。最後に2頭の馬に引かれた馬車が通り過ぎるのが最初のバージョンで、ほかに3頭の黒い馬が通り過ぎるバージョンと馬が登場しないバージョンがあり、それらはあとになってから制作されたものと考えられている。



[工場の出口]
([NHK]より)

 [列車の到着](▽図)が上映された時には、列車がスクリーンの奥から下手に向かって突き抜けて行くのを見ていた観客が思わず腰を浮かせたと言われている。
 このような"初めてのメディアに直面して人々は間抜けな反応をした"話しはあまりまともに受け止めない方がいいと思う。でも、(それほど昔のことでもない)つくば博の[The Universe]という立体映画でも、巨大な分子が突っ込んで来るのを見て誰もが首を縮めていたから、同じようなことは当時も少なからずあったに違いない(そしてそれをばかにするわけにはいかない)。
 ともかく、[列車の到着]は、映像による視覚と現実との違いから多くの観客を怯えさせたりふしぎがらせたりした。このことは、現実に似ていながらそれを拡張した新しい視覚を生み出す力を映画は(もっと言えばメディアは)もっているということを、人々に気づかせるきっかけになった。
 この作品は、駅に到着した列車から人々が降りて来るのをたまたま撮っただけのように見える。しかし実は、列車から降りて来るのは、ほとんどがLumièreの親戚たちだ。[列車の到着]は(今の映画と同じように)、すでにきちんとした準備に基づいて撮影されていた。



[列車の到着]
([NHK]より)

 [散水係]は、ホースで水を撒いている庭師のそばを通りかかった青年が、ホースを踏んで水を止めるいたずらをしかけ、びしょ濡れになって怒った庭師に尻を叩かれるという作品だ。明らかにこの作品は劇として作られている。
 この作品は遅くとも1895年06月10日以前に撮影されたと考えられている。



[散水係]
([NHK]より)

 [赤ちゃんの食事]は、(たぶんAuguste)夫妻が赤ちゃんに食事を食べさせているところを見せるもので、世界で初めてのホームビデオというおももちがある(これまで説明してきたように最初の作品はどれも少なからずホームビデオだったわけだけど)。



[赤ちゃんの食事]
([Gronemeyer]より)

 "lumière"という単語は光りを意味する。映画を生み出した人たちの名字がLumièreだったというのは(偶然だろうけど)とてもふしぎなことだ。



lumière
([丸山]より)




参照/引用させていただいた資料

The Museum of the Moving Image (assoc.)
Cinema
Eyewitness Guide Series
(Dorling Kindersley Limited, 92)

Andrea Gronemeyer
Film
A Concise History
(Lawrence King, 99)

NHK
映像の世紀
(95)

映画界うらおもて
http://homepage2.nifty.com/zatsugaku/990912.html

映画館のはじまり
http://www.kdcnet.ac.jp/kyoto/jouhou/97stu/04397/tsld003.htm

映画の誕生
http://www.jk-cinema.com/history.htm

クラシック映画史
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/5710/cla-history.html-46-k

山形ネットエキスポ95プロジェクト
リュミエール兄弟と日本 1895-1995
http://www.informatics.tuad.ac.jp/net-expo/cinema/lumiere/catalogue/ja/ (1995)

http://www.sakuragaoka.ac.jp/
(1997)




ビデオの先駆けたち

ミュートスコープ | ゾートロープ | プラキシノスコープ


 このページの記事の一部は、[メディアテクノロジー論]を履修した学生たち(安部裕介 荒井千里 石ケ森陽子 佐藤美津樹 桧山歩美 本多雅博 南亜希子)が、学習の一環として調査してくれました。


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