資料シート●各科目

キネトスコープ
Kinetoscope

http://www.infonet.co.jp/apt/March/syllabus/bookshelf/Kinetoscope.html




 キネトスコープ(Kinetoscope)は、映画以前のビデオシステムの一つで、巡回型のアニメーションを見ることができる。Edisonが開発し、Edison社(今のGeneral Electric)からリリースされていた。
 媒体は今の映画館で使われているのと同じフィルムで、前後をつないで環にしてある。これを専用のプレーヤ(▽図)で再生する。
 プレーヤは覗き込み式になっていて、原則として、一人ずつしか鑑賞できない。したがって、観客を増やしたければ余計に何台も機械を買わなければならなかった。もっとも、この短所もEdison社にとっては出荷が伸ばせるという長所になっていた。
 キネトスコープで上映できる作品の長さはせいぜい約1分ぐらいだった。これは、フィルムの輪を収納する箱の大きさに限りがあったからだ。

 

キネトスコープ
内部(左)と外観
(資料[映画はついに100歳になった]より)

 1890年ごろには、Edisonはビデオの録画と再生のシステムの開発に取り組んでいた(→[くしゃみ])。Edisonはマレーに会って写真銃を紹介され、そこに使われていた帯形のフィルムに興味を持つようになった([吉見])。
 そして1894年に、Edison社は、自由にコンテンツを選んで鑑賞できるEdison パーラ(キネトスコープサロンとも)をニューヨークで開店した。ここには何台ものキネトスコープのプレーヤが置かれていて、好きな台にコインを入れて、その台に組み込まれているコンテンツを見ることができるようになっていた(▽図)。



Edison パーラ
(資料[Cinema]より)

 キネトスコープのプレーヤは製品として販売もされたが、個人で購入できるほど安くはなかった。しかも、コンテンツがプレーヤに内蔵されてしまっているので、新作を見るためには新しいキネトスコープをプレーヤごとまた買ってこなければならなかった。そこで、興行者が何台かを購入して自分のパーラに設置し、観客は観賞料を持ってそこに見に行くという形式が成立した。
 この直前の1892年には、パリでRainaudがテアトルオプティーク(Theatre Optique)の興行を始めている。テアトルオプティークは、舞台のスクリーンに像を映写して多人数の観客が鑑賞するシステムになっていて、むしろ現代の映画に近かった。
 これに対して、キネトスコープのプレーヤは覗き込み式なので、一人がプレーヤを使っている間は、ほかの観客は作品を見ることができない。そのため、興行者は、より多くの観客から鑑賞料を集めるためにはプレーヤの台数を増やす必要があった。このことにEdisonが気づいていたかどうかは分らないが、もしもコンテンツがプレーヤにパッケージされていなかったら(=現在のビデオソフトのように別売りになっていたら)、Edisonはコンテンツの制作費を回収することはできなかったかもしれない。
 もっとも、キネトスコープには機器の操作もパッケージされていたわけで、買ってただ置いておけばいいというのは、興行者にとってもメリットになっていた。このことの重要さは、Reynaudしか操作できなかったために普及しなかったテアトルオプティークと比べるとよく分る。

 やがて、多くの興行者はプレーヤを買い足さないで観客の人数を増やしたいと考えるようになった。特に、テアトルオプティークを経験していたパリではその傾向が強かったはずだ。
 こうした要求に答える形で、フランスのLumiere(リュミエール)兄弟はシネマトグラフ(Cinematographe)というムービシステムを開発した。
 シネマトグラフは、現在のふつうの映画の原型になったシステムで、キネトスコープとは違って、フィルムの像を、映写機を使ってスクリーンに投影するようになっていた。
 キネトスコープが、個人が一人で、見たい時に見たい所で見る映画だったのに対して、シネマトグラフは、映画館(音楽や演劇のための劇場が流用された)に数十〜数百人の観客を集めて、同時に全員に同じソフトウェアを鑑賞させることができた。
 シネマトグラフが登場すると、パーラの興業主たちは、手元のキネトスコープを分解して中に装填されているフィルムを取り出し、それをシネマトグラフの映写機で上映することによって、さらに多くの利益を上げるようになった。このためにキネトスコープの出荷は急激に落ち込んだ。EdisonはLumiere(リュミエール)兄弟たちに対して裁判を起したが、敗れ去った。

 現代の映画は、サービスのための空間としては、シネマトグラフと同じく劇場を採用し、パーラの形態は採らなかった。Edison パーラの光景は、今で言えばむしろゲームセンタやインタネットカフェを連想させておもしろい。
 映画が劇場をサービスの場として選び、ゲームやインタネットがパーラを選ぶことになった理由はいろいろ考えられるが、一つには、映画(少なくとも商品としての)が、演劇や音楽の公演をメタファとして発展してしまったことが関係あるかもしれない。それを見るためには、ちょうどプラキシノスコープがそうだったように、空間としても劇場のメタファが必要とされたのだろう。
 ゲームやインタネットではむしろ、ただ見ているだけの映画とは違って、個々の観客からの行動とその反応を必要とするので、劇場のように全員が同じ体験をすることはかえって望まれない。そのために、個人用のプレーヤやパーラの形式が今でも受け入れられているのだろう。




参考にした資料

The Museum of the Moving Image (assoc.)
Cinema
Eyewitness Guide Series
(Dorling Kindersley Limited, 92)

Andrea Gronemeyer
Film
A Concise History
(Lawrence King, 99)

四方田犬彦、NHK
人間大学
映画はついに100歳になった
(95)



ビデオの先駆けたち

ミュートスコープ | フェナキストスコープ | ゾートロープ | プラキシノスコープ | キネトスコープ


ジャンクション


映像

コミュニケーション実習D マルチメディア演習 メディアテクノロジー論
石原ゼミ

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