フランスのNiépce(ニエプス、Joseph Nicéphore)は1824年ごろに写真の技法を発明し、のちに
ヘリオグラフ(Heriographe)と名づけた。画家のDaguerre(ダゲール、Louis Jacques Mandé)はこの発明に興味を引かれ、29年に、互いの研究の成果を交換し合う契約をNiépceと結んだ。33年にNiépceは亡くなるが、Daguerreは独自に研究を続け、
ヘリオグラフよりも便利で正確な写真の技法を発明した。Daguerreはこの方式をダゲレオタイプ(Daguereotype)と呼んだ。
ダゲレオタイプでは、金属板に
沃化銀を塗って、そこに専用のカメラ(▽図)を使って数十分ほど像を結ばせておき、それから
水銀の蒸気に曝す。すると、光が当たっていた部分の沃化銀は還元しやすくなっているので、沃素が銀から水銀に移って、あとには銀が残る。この銀の色と地の金属の色との違いによって像が現れる。
Daguerreは、フランス政府から終生年金を得て、代わりにダゲレオタイプの特許を取得する権利を放棄した。こうして、写真は個人が自由にスチルを記録できるメディアになった。
Daguerreはパリでジオラマ(Georama)の興行を行なっていたので、現実感のある背景画を描くのに
ヘリオグラフが役に立つと考えたのかもしれない。ジオラマの背景画の下絵として使うのなら、屋外でしか撮影できないとか、恣意的とかいった
ヘリオグラフの欠点は問題にならなかったのだろう。