戻る 情報戦の桶狭間 (情報戦争)

 永禄三年五月、二万五千の兵を率いて西上して来る今川義元の大軍を、 若き織田信長は僅か二千の兵力で桶狭間に打ち破り、敵将義元をを斬って敗走させた。 本来ならば絶対に勝つことの出来ぬ兵力差での大逆転劇がどうして可能であったのか。

 これについて一般には、梅雨末期の豪雨に身を隠しながら、大きく迂回して敵の背後に回り、 敵の油断を突いて、その本陣に突入したためであるとされている。

 すなわち。早朝に清洲の城を出た信長は熱田神宮で兵を整えて善照寺砦に入り、折からの豪雨の中を、ここから大迂回し、 午後二時頃、太子ケ根と云う山を駆け下って、雨を避けて桶狭間で休憩している義元を急襲したと云うものである。

 つまり、源平争乱の昔、源義経が平家の一ノ谷の城を攻めるために、丹波を経て大迂回し、 城の裏山の鉄拐山から鵯越を駆け下って急襲した故知に習うものであるとする。

 しかしながら、最近の研究によると、これは、旧陸軍参謀本部が迂回奇襲作戦の実例として、 勝手に作り上げたストーリーであって、事実ではないとされている。

 信憑性の高い信長公記などの記すところによると、善照寺砦に入った信長は、その先にある中島砦に大胆にも移動する。 その中島砦と云うのは、戦略上で云えば 「死地」 である。 二つの川の合流点の先端部にある小さな丘の上に作られた砦で、鷲津・丸根の砦がすでに今川方の手に落ちている今では、 砦の周りは敵軍で充満している。 押し包まれると完全に殲滅されてしまう場所である。 しかも、敵からは丸見えの場所。しかし、信長は敵の本陣に一歩でも近づくために、あえてここに兵力を集結させた。 信長は、折からの豪雨で川の水嵩が増し、付近の田圃も沼地と化しており、 敵が容易に攻め懸かれないことを計算したのだと云う。

 やがて、雨が小止みになり、急に空が晴れ上がってきた時、義元の本陣のある桶狭間山へ一気に攻め上ったのだと云う。

 このように、信長は大迂回など行ってはいない。 では、どうして信長は奇襲に成功したのか。 この戦いで信長は徹底的な情報戦を行ったと見られている。 信長の奇襲はその情報管理の緻密さによって作られたもののようである。

 まず、その前夜、ひたひたと寄せてくる今川軍を迎えて、籠城すべきか出撃すべきかの軍議を開くべきにもかかわらず、 信長は清洲の城で部下の重臣たちと世間話の雑談をするばかりで軍議を開こうともせず、 「もう遅くなった。皆も家に帰れ」 と席を立ってしまう。 彼は出撃と心に決めていたが、それを口にすると、そのことが、どこからか敵の耳に入ることを警戒したのだと云う。 敵を欺くためには先ず味方を欺くと云う情報戦の要諦に従ったのである。

 そして、翌朝、僅か五人の小姓だけを連れて城から駆け出し熱田に向かう。 それを知って部下たちが次々と集まってくる。 この時も、陣揃えなどしなかったのは、敵に情報が流れることを防ぐためであった。

 このように、彼は自らの意図や行動を、敵の目から徹底的に隠したが、 他方では、敵の動静を探るための探索網を張りめぐしていた。 すなわち、簗田 (やなだ) 出羽守政綱に命じて、その部下を土民に変装させ、 西上してくる今川軍と清洲との間に展開させ、逐一敵の動きを報じさせた。 義元が桶狭間山 (標高65米) で雨を避けて休憩しているとの報せを入れたのも彼らであった。 戦後、信長はこの戦いの勲功の第一として簗田出羽を賞した。 戦場で義元を斬り、その首級を挙げた服部小平太・毛利新介らの勲功は第二としたのである。

 熱田から駆けて、さらに善照寺砦に入った時、その軍勢は約二千。 信長はその貴重な兵力の半数近くを割いて、既に陥落している鷲津・丸根の砦に向かわせ、その奪回を図らせる。 これは陽動作戦である。敵の目をそちらの方へ引き付けておくためである。

 そして、中島砦に入った信長は、雨が止むのを待って桶狭間に出撃するに先立って、砦の上に旗指物を立て並べておく。 その兵がまだ砦に居るかのように見せかけるためであった。

 このようにして、信長の勝利は、豪雨の中での大迂回による奇襲によってではなく、情報作戦による奇襲であった。 自らの情報は徹頭徹尾隠蔽して、敵の情報を徹底的に探ると云う情報戦の勝利であった。

(2001年9月)


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