戻る 関ヶ原の陽動作戦 (あるいは虚報)   (情報秘匿)


 慶長 5年 (1600年) 9月15日、 徳川家康の東軍約7万は、 石田三成の西軍約8万と美濃の国関ヶ原で戦い、 東軍が圧倒的に勝利する。 この戦いで、 徳川家康は壮大な陽動作戦を仕掛けている。
 陽動作戦は敵を欺き騙すための作戦である。 「陽」 とは 「偽り、 見せかけ、 表面的」 と云う意味がある。 (ちなみに、 「佯」 と云う字も全く同じ意味である)

 それ に先立ち、 6月16日、 徳川家康は会津の上杉景勝討伐のために諸将を率いて大阪城を出発する。 その隙に、 石田三成が大谷吉継らを誘って挙兵し、 家康弾劾文を諸大名に送る。 会津遠征の途上、 このことを知った家康は7月25日、 下野国小山において諸将を集めて会議し、 結城秀康らを上杉への備えに残して西に向かう。 家康は8月5日江戸城まで戻る。 福島正則の居城である清洲城に入った福島正則 ・ 池田輝政らの先遣部隊は、 8月27日、 西軍に属した織田秀信 (信長の孫、 幼名三坊師) が居る岐阜城を攻め落とす。 これを知った家康は9月1日江戸を出て、 13日岐阜城に入る。
 それまでに西軍は、 鳥居元忠が守る伏見城を8 月1日に陥れ、 次いで京極高次の大津城 ・ 細川藤孝の田辺城を開城させ、 伊勢では安濃津城 ・ 松阪城 ・ 桑名城を攻め立て伊勢路を平定した。 その後西軍主力は、 西軍に属した伊勢盛宗が城主の大垣城を根拠地として、 ここに石田三成 ・ 小西行長 ・ 宇喜多秀家らが居り、 城の東方に島津義弘、 城の西方南宮山に毛利秀元 ・ 吉川広家 ・ 安国寺恵瓊らが陣を敷いていた。 これは、 大垣城に籠もって東軍と戦いつつ、 毛利輝元を総大将とする援軍が駆けつけるのを待って家康を挟み撃ちにする作戦であった。
 そこで、 家康は大垣城の西に布陣して、 中山道を経由してやって来る秀忠率いる3万8千の別働隊の到着を待っていた。 しかし、 秀忠軍の到着は大幅に遅れそうである。 大垣城包囲攻撃に徒に時間を費やしている間に、 毛利輝元の大軍がやってきてはならない。 家康は大垣籠城軍を野戦に引き出して、 毛利輝元の到着以前に一気に決着をつけようとした。

 かく て、 籠城軍引き出しのための陽動作戦が行われる。 家康は軍議を開いて、 大垣には僅かな兵を備えとして残すだけで、 全力をもって西進し、 三成の佐和山城 (彦根市) を攻め落とし、 そのまま一気に大阪城を攻めると定めた。 この決定は、 去就未だ定かでない宮部長熙によって大垣城に伝えられた。 大垣の西軍はまんまと家康の思う壺にはまってしまう。
 三成らは慌てて、 14日の深夜、 折からの豪雨をついて城を抜け出し、 関ヶ原盆地の西北端の山麓に陣を移した。 東軍はその後を追うように関ヶ原盆地に入り、 家康は盆地を西方に見下ろす桃配山に本陣を定めた。
 その後の戦況は、 よく知られている通りである。 午前8時頃に始まった戦闘は、 容易に勝負が着かなかったが、 正午頃、 東軍に内通している小早川秀秋の裏切りによって、 午後2時過ぎには西軍は潰滅し敗走した。


 この 戦いの鍵は、 大垣籠城軍を関ヶ原に引き出した陽動作戦である。 事実、 大垣城は、 15日早朝から東軍の攻撃を受けたが、 関ヶ原で勝負が決した後も、 なおも抗戦し、 18日には守将の多くが謀略によって殺害されるが、 なおも陥落せず、 最後まで守り抜いた福原長堯が降伏したのは23日であった。 このように城攻めには時間がかかる。 野戦への引き出しが鍵であったことが知られる。
 この作戦は、 陽動作戦と呼ばれているが、 家康の偽りの動きによって三成が城から出てきたと云うよりも、 「虚報」 に乗せられて自ら城から出たのだから、 正確には 「陽動作戦」 ではないかも知れない。 しかし、 所詮、 「戦術とは、 偽の情報をもって、 いかに敵を欺瞞し騙すかと云うこと」 だと云うことを、 まざまざと見せつけられる。



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