浪人していた頃は、
[距離] のほかにもいろいろな映画の実験をやっていた。
カメラを投げたり、鏡にぶつけたり、踏んづけたり、ブランコさせたりしていた。つまりは、人とは変わったことをやってみたいということなのだが、こういうことをやることは、当時の個人映画の流行であり、そこから先を考えなかったところが僕のオリジナリティのなさである。
そういえば、あの
[ぴあ] が創刊されたのも浪人のときだった。最初は、[町で見かけた高校生] や [お友達募集] といった記事が中心だったのを記憶している。イベント情報といったって、まだそうは集まらなかったのだろう。考えてみると、あの頃の
[ぴあ] は、最近また流行している雑誌のスタイルとまったく同じだったのである。
さて、いきなり大学時代を飛ばすことにする。大学時代は、
石原(以下、友人知人でも平等に敬称はつけないことにする。陳謝)との物理的
距離が離れてしまった関係もあって、年に1〜2度会っては
[距離] の続きをぼちぼちと撮る、という程度の活動しかしていていなかったからだ。
社会人になってからの個人映画との関わりは、ほとんどすべて
JEK とのつきあいを通じて生まれている(
*00)。
JEKは
茨城大学の学生たちが中心になって結成された映画のグループだが、実は、僕は
水戸に住むようになる前から彼らのことは知っていた。TVの [11PM] という番組で学生映画の特集をやった時に観て記憶していたのだ。
その時に紹介されていたのが
[スローバラード] だった。
[スローバラード] の監督は
薄井司という男で、本人が出演もしているのだが、その演技も光っていた。
薄井の
[スローバラード] とその次の作品の
[赫い刺] は個人映画としてはものすごくいいできで、僕が見た個人映画のベスト3のうちの二つをこの2作品に決めてもいいくらいだ。第一、
8mmで堂々と
ドラマを撮ってしまったというところが、
8mmと言えばイメージフイルムという感覚が強かった当時の僕には新鮮だったのだ(
*01)。
その後、僕は
水戸で
[三月劇場] を旗揚げすることになったのだが、そこで初めて書いた
[海の上の蝶] という芝居に
薄井が出演してくれたのがきっかけで、
JEK とのおつきあいが本格的に始まった。
僕は
JEK の映画には出演もしている。あれは
[川の流れる町] (監督:藤枝敏男)という作品だった。
実は、僕はこの映画をきっかけに役者を止めてしまったのだ。それまではそこそこ自分の演技に自信を持っていたのだが、映像になって客観的に自分の演技を見たとき、はっきり言って自分が
だということに気がついたのだ。僕に当てられたのはうらぶれた映画館(
*02)の支配人という役柄だったが、セリフがきちんと覚えられなくて、アップをなるべく避けてもらって、少しくらい台本とセリフが違ってもいいようにロングから撮ってもらったりしたものだ。
このときのメンバーは、その後、表現集団
[ジャングルズ] を結成した。
[嗚呼恥ずかしのダッツバ探検隊] という芝居では、彼らに脚本を依頼して、いっしょに公演をやっている。グループ展 [少数民族の祭典] などは秀逸だった。
その後も、
JEK とのつき合いは続いた。よく家へも遊びに来ていた。
[無邪気な遊撃隊] (監督:板垣賢一)や
[In The Broken Time] (監督:牧田実)にも参加した。もっとも、
[無邪気な遊撃隊] の方は、手伝ったといっても、何かをしたというわけではなく、機材を貸した程度だったはずだ(
*03)。
[In The Broken Time] では僕は脚本を担当した。最初は原案を担当するだけだったはずなのに、時間が足りなくなってしまって、原案がそのまま本番台本になってしまったのである。当時はアラン-シリトーの [屑屋の娘] という小説が好きで、そんな感じを出したいと思って書いていたのを覚えている。
この作品ときたら、監督の趣味で、おもな女の子をみんな同じタイプにしてしまったので、混乱を招いていた。観客は "どうして同じ女の子があっちに出たりこっちに出たりするんだ" という、ほとんど
[Love Letter] 状態だったのである。
脚本家がけちだったためか、
JEK 始まって以来の超低予算映画になり、監督していた牧田は、"出演者が多いしカットも多いはずなのに
[無邪気な遊撃隊] に比べて金は1/5しかかかっていない。なぜだろう" と言っていた。実際、まあ知り合いが出ているわ出ているわ、見周してみれば身内だらけであり、主演は劇団 [第七病棟] に行った飯島悟、
[月虹舎]の
所健一、
野沢達也(
*04)も参加している。
この映画で僕にとって最大の事件は、
水戸の
泉町でロケをした時のことだった。撮影は
京成デパートの前で行われていたので、邪魔したら悪いと思った僕は、国道を渡って向かいの
伊勢甚デパート側でうろうろしていた。すると一人の男が寄ってきてこう話しかけてきたのだ。 "兄ちゃん、今日オープンしたばっかりなんで、1万円ぽっきりでどうだ?" 僕は用があるからと断った。それからまたぶらぶらしていると、さっきの男がまた寄ってきて、おかしいことに、また同じセリフを繰り返すではないか。僕が、さっき断ったはずだというと、男は謝って向こうへ行った。ところが、またぶらぶらと歩いていると、今度は別の男に同様に声をかけられた。これも断ったが、しばらくするとまた別の男に声をかけられたのだ。最後にはとうとう、声をかけられる前に、周りの人が "この人は違うから" と言ってくれるようになった。
"どうして俺ばっかりこんなに声をかけられるんでしょうね" と僕は最初に声をかけてきたポン引きの男に聞いた。すると彼は "一番スケベそうな顔をしているからだ" と教えてくれたのだった。これが、この映画で僕にとっては最大のショックな事件である(
*05)。
浪人時代によく食べていたのは、何でも入れた鍋、要はゾースイ風の
ごった煮である。
電熱器と電気釜のほかには加熱器がなかったので、電気釜でよく作っていた。同じ下宿の合沢が、金が無くなるたびに、100円を持っては "
森島、食わしてくれー" と言ってへやに来ていたのを思い出す。
セロリ、キャベツ、羊の肉、ジャガいも、たまねぎ、にんじんなどを軽くいためてスープの素と一緒に適当に煮る。ここにトマトピューレと洗った米少量を加え、米が溶けてとろみがでたら出来上がり。洗った米では面倒なので、残りご飯でもいい。味付けは塩こしょうで。