SF映画や冒険活劇映画が好きである。 [バック-トゥ-ザ-フューチャー] シリーズ(
*01)、 [インディ-ジョーンズ] シリーズ(
*02)、そしてはるか昔では
[海底二万マイル](
*03) など、数え出すと切りがない。ところが、こういう映画で食事のシーンというのはほとんどない。残念ながら、冒険や活劇に食事というのはそぐわないのだろう。
[インディ-ジョーンズ] で、潜水艦の潜望鏡につかまって大西洋の半分くらいまで走ってしまうところがあった。こういう映画を見ていて、
"この間、食事やトイレはどうしていたのだろうか"とか
"たどり着いても腹がへっていて力が出なかっただろう"などと小人はつまらないことを気にしてしまうのだ。まあ、こういうことを気にするからロクな脚本が書けないわけである。
自作のことで何だが、未上演の
[いちばん悪い魔法] という台本では、"魔界" に友人を救いに行く子どもたちは、ちゃんとお弁当やお菓子を持っていく設定になっている。性格とはいえ、こういう設定にすると冒険の緊張感がどんどん薄れていくのは確かで、主人公たちが飴玉ひとつで争う場面のほうが魔物と戦う場面よりも緊迫感があるようでは、手に汗を握るというわけにはいかない。
子どもの頃はそういった生活観がなかったから、容易に映画と一体になることができたような気がする。どこへ行くのも冒険だった。今、中年と呼ばれる年になって、僕たちの世代にとって "冒険" という言葉がいちばんしっくりくるのが、退職や転職であるというのは、悲しい社会情勢である。
もっとも、少し前までの社会風潮では不倫が "冒険 "にあたっていたわけで、中年に健全な "冒険" は似合わないのかもしれない。まあ、少なくとも "活劇" は夫婦喧嘩以外にはありえないということになるわけだ。
そういいながらも時々は、ハラハラドキドキする事態に出会うことがある。先週の金曜日にスクーターで国道1号線を走っていたら、右車線を走っていた車がいきなり左車線に入ってきた。ブレーキをかけたらそのままスリップしてスクーターが転倒。危うく、この連載が
17回で最終回となるところだった。幸い骨には異常がなかったが、打撲のためこれを書いている今も、左半身はぼろぼろである。
その翌々日は、家の裏で、炭火焼の手羽元を試食をしながら一杯呑んでいたのだが、鳥を少し買いすぎたので、近所の人に声をかけて本格的に呑み始めた。そうしたらこれが止まらなくなって、部屋に戻ったとたん意識がなくなった。
前にも書いたかもしれないが、去年の冬、すっごい美人のインド人と街で立ち話をしたことも僕にとっては冒険だ。
こうして書き綴ってみると、それはそれとして確かにドキドキものなのだが、中年になってからの冒険はこんなもんかな、と思わせるどこか淋しいエピソードばかりである。書いているうちにだんだん悲しくなってきた。
考えてみれば、本業では、山や崖に登るのはしょっちゅうなわけで、崩壊したばかりの崖を登ったこともあるし、自分が降りたとたん直径2mくらいの落石がバックホウを直撃したのも目撃している。地滑りを観測した次の週にまさにその崖が崩壊したこともある。でも、これって、自分の仕事であって、ただの日常なのだ。どう考えても冒険とは思えない。もしかすると、007も、
アーノルド-シュワルツェネッガー(
*04)がやった
[トゥルー-ライズ](
*05)の主人公も、僕と同じで、ああいう生活は日常にしか感じられないのかもしれない。
そういえば、ことしは父親としては冒険としか言えないようなできごとをいくつか体験した。夏に川遊びに行ったとき、長男が乗っていた浮き輪がひっくり返って、
[犬神家の一族]の、あの、足が水面に浮き出たシーンを再現してしまって、助け出すまでにちょっと手間取ったときはハラハラした。そのあとで長女が急流に飲み込まれ、下流にいたほかの子に助け出された時も、本人以上にハラハラした。
冒険家の食卓に似合うのは、焚き火で焼いた牛や豚の丸焼き。せめて骨付きの肉といいたいところだが、骨付きは高いので、安い肉を買ってきて塩焼きするのをお勧めする。
我が家の川原でのメニューは、たいがい砂肝とカルビー、豚モツとタンといったところだ。個人的には、豚のハツの塩焼きも好きである。これまでの経験では、2〜3人で遊びに行くのなら、炭のもちといい火力の加減といい、[ザ七輪] というコンロがいちばん便利だ。大きさも邪魔にならないし、ごみの出方も少なくてすむ。
実は、手羽元の塩焼きもこれでやると最高なのだ。家族の分を焼いているうちに試食タイムになり、いつのまにか飲み会になって、気がつけばべろんべろん。いかんいかん、これではただの飲兵衛だ。
今度お友だち紹介雑誌にでも広告を出すことにしよう、"本当の冒険求む" 。