鳥の声がした。僕は光の中で目を醒した。太陽の光は開け放されたアルミサッシの窓から僕に降り注いでいた。まどろみの中で、もう一度鳥が鳴いた。かけっ放しのプレーヤーから聞こえてきたのだった。プレーヤーはレコードの同じ面を繰り返し演奏するようにセットしてあった。
音楽は僕を夢の中で墜落させた。僕は夢の中で小鳥であり、空気の浮力は海水よりもやすやすと僕を空中に持ち上げ、僕は海の中の魚のように自由に空気の中を飛んだ。だが、レコードの不協和音の響きが平衡を破り、僕は墜落した。
キット声ヲ上ゲタンダ
ブザマナ叫ビ声ヲ上ゲテ、僕ハ堕チテイッタンダ
口の中が痛かった。眠る前にたて続けに吸ったショートピースのせいだった。ショートピースを日に一缶、これが毎日続いていた。
体中カラたばこノ匂イガスル
喉が渇いていた。冷蔵庫にはいつでもスイカが入っている。
僕ハコノ三日間、すいかトこーんふれーくト、牛乳以外ハ口ニシタコトガナイ。タマニハマトモナ飯モ食ワナイト、体ガモタナイカモシレナイ。アノ墜落ダッテ、キット腹ガ減ッテイタカラダ。毎日、50本ズツノたばこヲ吸ウヨウニナッテカラ、固形物ヲ食イタイトイウ欲求ガ起キナイ。
しかし、冷蔵庫のおかげで冷たいスイカが食べられるだけでもありがたかった。同郷の先輩が、夏の間、このアパートを貸してくれると言い出さなかったら、毎日あの薄暗い下宿で、食中毒を心配しながら、三日に一度しか炊かない飯にみそ汁をぶっかけて、白菜の漬物をおかずに食事していただろう。他人と一緒に食事をする外食は精神的に苦痛だったし、とにかく、冷えたスイカを食べることはできなかった。僕はスイカが好きだった。淡紅色の果肉を噛むと、甘い液体が口の中いっぱいに広がっていく、あの感覚がたまらなかった。
僕は眠っていた藤の椅子からゆっくりと立ち上がって、黒く塗られたタンスの上の腐りかけた林檎を見た。林檎はもうツヤを失って、皮もしなびていた。林檎を腐らせているのは少し前にラジオで聞いたドラマのせいだった。
アノ話ヲ聞いイタ次ノ日ニ、まーけっとヘ行っッテ、林檎ヲ買っッテキタノダ。
しかし、林檎はドラマの話のように果肉から腐るのではなく、芯から腐っていくために、古くなった林檎の芯は自分の重みを支えきれないのだということを、すぐに知った。糸から落ちた林檎はこうしてタンスの上に移され、腐るにまかせてある。
胃袋が空っぽなので、全身がだるく、てきぱきと動こうという意志を持てなかった。かといって食欲もなく、何を食べても胃が締めつけられるような痛みがくることは分っていて、しかしそれでも冷蔵庫からスイカを出して食べ始めた。食べている途中に郵便が表の郵便受けに届いた。食べるのを中断して手紙を見ると、友人の高岡からだった。
例の映画の件ですが、こっちのカメラが壊れました。そっちで用意できませんか。できれば駒撮りができるのがいいのですが。カメラさえ用意できたら、こっちもすぐに参加します。それから例のシナリオですが、前々から言っているように、あれがシナリオと言えるかどうかは疑問です。映像のためのシナリオは言葉に従属するものではないと思うのです。そこを検討しておかないと、結局、高校の時の失敗の繰り返しになると思います。
僕は高岡の手紙を読み終えるとすぐに、デスクの上の住所録を探した。以前、このアパートの先輩に多摩芸の助手をしている人を紹介されたのを思い出したからだ。電話をすると本人が出てくれた。「宮村さんですか。あの、先日お会いした小林ですけれど、キャノンの510を持ってましたよね。あれ貸していただけませんか。実は友人と映画を撮る予定だったんですけど、そいつのZ450が壊れちゃいまして、今しか撮れる時はないみたいだし。え?貸してもらえますか。分りました。紀伊国屋の前で3時。はい、じゃあ」
電話を切って服を着た。部屋を出ようとして食べかけのスイカのことを思い出したが、もう食べる気はしなかった。下宿から誰かのサンダルを黙って持ってきたのを突っ掛けて外へ出ると、夏の光の中で、ダークブルーのBVDのTシャツと穴だらけのジーンズを着た僕は、まるで影になった気分だった。
アパートの前の丸井女子寮の洗濯物を横目で見ながら突き当たりの道を左に曲ると雑貨屋が見える。僕は、雑貨屋の前の自動販売機で
ドクターペッパーを買った。このコンブ飴の味がする飲み物は、各駅停車の旅の記憶とつながっている。各駅停車の列車で旅をする時、時間を縮小したければ酒を飲むといい。飲んでいる時は時間を忘れることができる。逆に、風景を記憶に留めようとする時は、僕はいつも
ドクターペッパーを飲んだ。
ドクターペッパーを飲みながら列車の窓から外を眺めていると、時間がゆっくりと流れていくのが感じられるような気がした。
雑貨屋を右に曲ってしばらく歩くと、右手に栗林がある。始めてこのアパートを訪ねた時は、栗の花が満開だった。栗の花は精液の匂いがするというのは本当だということを知った。何回か、この道を朝走ったことがあった。僕はスポーツが苦手だった。他人の視線の中では体がこわばって、リズムがちぐはぐになってしまい、高跳びも幅跳びも人よりかなり劣っていた。人並みにできるのは長距離を走ることだけだった。長距離、それも学校の外を走る時は、みんなが一緒に走っているから他人の視線をあまり気にしなくてもすんだ。それで今でも時々一人で走ることがある。
高岡と作ろうとしている映画に、こういう僕の個人的体験は深く関っていた。「距離」と名づけられたその映画は九つの断片から成立していた。作ろうとしていたのはドラマだったけれど、機材の関係でトーキーにはできないことが分っていた。だから、そのためのシナリオはふつうのシナリオらしい形をとってはいなかった。高岡が手紙でシナリオに疑問があると書いてきたのはもっともな話だった。
栗林は中央線に沿って長く続いている。武蔵小金井の駅前の商店街は栗林のはずれに突然現れるのだった。
新宿まで電車で23分かかった。新宿へ着いたのは1時半で、約束の時間までにはまだ間があった。
地下街を歩いてコーヒーカップを物色することにした。コーヒーが好きなので、コーヒーカップはずいぶんたくさん買ったけれど、実際に使ってみると具合のいいのはなかなかなくて、結局は下宿の流しの下で埃にまみれて転がっていたネービーブルーのマグカップを拾って使っている。高校時代は、本屋にいれば何時間でも時間潰しができたのだけれども、浪人になってからは、本屋ですら自分を圧迫する気がして以前はいかなかった場所へ行くことの方が多くなっていった。そこはブティックであったり、パイプ屋であったり、輸入雑貨を売っている店であったり、代わった感じのする喫茶店だったりした。地方の小さな街から出て来て、大学浪人という学歴的には何の意味もない時間の中で、高校時代の勉強の反復を続けなくてはならないことは苦痛だった。
本心を言えば、大学と名がつけばどこでもよくて、4年間気ままに遊んで卒業できればいいと思っていたのだが、現実には受験した大学すべてに落ちてしまった。そのためか、映画館や劇場のような場所にもあまり行きたくなかった。自分を省みるきっかけを作りやすい場所だからだ。
今は刹那的なことの方が好ましかった。コーヒーカップ一つに夢中になってみたり、パチンコを朝から晩までやっていたり、喫茶店でぼんやりとマンガを眺めていたり、それはほんとうは全部夢中になっているふりをして見せているだけの逃避だったり、逃避そのものだったりした。
ほんとうにメンコに夢中になれた幼年期は終った。夢想と現実との狭間で、自分の殻を作りあげていく、少年期の最後の地点に僕は立っていた。宙ぶらりんは少年期の特徴だろうか。自分だけがそんなふうに考えていたのかも知れないが、ともかく宙ぶらりんでい続けるためには無限大に拡散する夢のエネルギーを必要とするのだ。それを可能にするイマジネーションを持ち続けることは、現実と折り合いをつけることよりも困難に思えた。
アア、僕ハ疲レテイル。キット食事ヲキチントトッテイナイセイダ。
とにかく、夢が夢のままで自分の貧弱な脳の中をめぐっていればいい時期は終っていた。たとえトーキーにもできない貧弱な映画でも、夢を形にする方向へ歩み始めなければならない。
コーヒーカップのいい物はセットで高過ぎたし、バラ売りのカップにはあい変らず気に入った物がなかった。疲れているのに急に気がついて、喫茶店を選ぶのさえ面倒になって、僕はたまたま目についたジャズ喫茶に入った。階段を降りて店のドアを開けると、「Kind of Blue」が流れていた。コーヒーはまずくて高かった。店の中に客は少なくて、みんなうつ向いて、リズムに合わせて足を動かしていた。楽しいことなんか一つもないような顔をして。
ユウウツニ、イクツ種類ガアルノダロウ。
目の前の幕が開いて、その向こうにスクリーンが見え、スライドが映った。
街が死にかかっています
黄色い水を吐いて人が死んでいきます
きのうも百人の人が死にました
誰もが不安に怯えています
スライドが溶暗すると、今度はスポットライトの中に高岡の顔が浮び上がった。高岡はひびが入った白塗りの化粧をして目をつぶっている。ゆっくりと目を開ける。それは真っ赤な目だ。朱で染めたような真っ赤な目だ。口が震えながら開く。真っ赤な口だ。高岡は一言だけつぶやく。
...水
水が欲しいのか、それとも水がどうにかしたのか、それすらも分らない。また溶暗する。高岡が宙にぶら下がっている。体中が傷だらけで、黒い空間の中で血を流している。体が腐っているのだろう。高岡はどんどん膨れあがって林檎になってしまう。しかしその林檎も腐っていて、皮と果肉がずるりと落ちると、そこには一本のナイフがぶら下がっているだけだった。
「高岡!」
目が醒める。目が醒めて、また叫んでしまったことを自覚した。いつの間に眠ってしまったのだろう。周りの視線が自分に集まっていることに気づく。叫び声なんてあげなかった、という顔をして時計を見た。
2時45分。約束の時間まであと15分だ。紀伊国屋へ行かなくてはならない。
薄暗い喫茶店から出ると、夏の光線は白くビルを染め、路面を白く染め、ビルの影と人の影だけが光の中を泳いでいた。
ビルとビルの間を鳥が飛んだ。鳥の声がした。
先輩のアパートで、自動演奏を続けるようにセットされたレコードプレーヤーはまだ回り続け、何度も鳥の声をあげていた。
僕は光線の強さに目を細め、白く染まった路面を飛ぶ鳥の影になって、宮村さんの待つ紀伊国屋へと急いだ。