[蒼街から]



激しい雨




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激しい雨が降ってきた。乗り換え駅の公衆電話でぼくははがきに書いてあるアパートに電話をかけた。しかし電話には誰も出なかった。

小林が中野の下宿に帰っている可能性も考えて、ぼくはホームに戻りながら手っ取り速く損得を計算して、とりあえず、はがきに書いてある住所に行ってみることにした。

傘を持ってくればよかった。はがきにしたがって下りた駅は、山の手線の環内から中央線の直線部分に大きくはみ出す位置にあった。約束の時間を過ぎていたので、駅舎で雨宿りをしたりするのはやめて、そのまま大荷物を下げて雨の中を飛び出した。結局、雨宿りをしてもしかたがなかった。この夕立ちはそのまま真夜中まで降り続いたのだ。

線路をガードの下でくぐると、はがきの地図に書いてあるとおり、線路に沿って道が東に向かってまっすぐのびていた。道の両側は梨か栗の畑のように見えた。手に持った荷物を頭の上にかざして雨を避けながら懸命に走った。

道は長かった。半分まで走ったところで、高尾方面行きのオレンジ色の電車が後ろから追い抜いて行った。道を走っている自分を電車の中から見ている、もうひとりの自分の視界が現実の視界と交差した。あんな所を、雨に濡れながら走っている。そんなふうに見られるのが嫌で、無理にペースを上げた。電車が通り過ぎたら息が続かなかった。立ち止まって雨に打たれた。どのみちびしょ濡れだった。そのまま、もう走るのはやめて歩き始めた。

2、3度角を曲がったところにそのアパートはあった。鉄の階段を上がって部屋の前まで来ると、台所らしい窓の明りは消えていた。かばんの中から葉書を取り出して確認した。他人の家にまちがって上がり込むのはごめんだ。部屋の番号は合っている。ドアのノブを回した。ロックしてない。

「こんばんは」と、声を出しながらドアを開けて顔を突っ込んだ。とたんに顔に何かが軽く当たった。びっくりして、顔を引っ込めた。ドアを大きく開いて、外の街灯の乏しい明りでよく見た。玄関にぶら下がっているものがある。明りで光っている。林檎の皮を剥くプチナイフだった。

慌てて顔を手でなでた。その手をよく見た。別に血は出ていない。雨で濡れているだけだ。ナイフを手でよけて中に入った。靴とソックスを玄関で脱いではだしになって、初めての部屋に入った。雨戸も閉めてある。外の光はまるで入ってこない。雨が屋根を叩く音だけが聞える。手探りで電灯のスイッチを捜してやっと明りをつけた。

へやの隅には写真の引き伸し機が置いてある。壁にシルクスクリーンの版画が貼ってある。少女がボートを漕いでいる。その光景はよく見ると窓の向こうに広がっている。少女との距離は手を伸ばしさえすればもう触れるばかりだけれど、窓の向こうだ。彼女はここにはいない。開いた窓の外の、現実の風景に重なって見えた幻視かもしれない。

Tシャツを脱ぎながら考えた。自分が他人の目で見えることが多くなった。他人だから自分の言動は見えていても、それを支えている思想は分らない。あとで覚えているのはそんな他人の目で見た自分の姿だ。これから20年も経って、40才になった時、今の自分の行動が、それなりにもっともな思想に基づいて行なわれていたことを自分は覚えているだろうか。

覚えていない。Tシャツを脱いで冷たくなった肩にそっと触れてそのことに驚いているという行動しか理解していない。

窓の外の風景になった。

電車の窓の外にはほこりと湿気でオレンジ色に濁った空があって、時たまその空のどこか高い所に閃光が走っていたのだった。電車は空いていた。

それはほんの2時間ほど前のことだった。2時間しか経ってなくても、それはもう過去のことだ。現在と滑らかに連続しているはずなのに現在とは遠く切り離されてしまった過去のことだ。電車の中は暑かった。窓を細く開けると強い風が吹き込んできた。とても鮮明に覚えているけれど、その延長に、こんな知らない他人の家に、夕立ちに降り込められて一人で座っているという体験がつながっているというのが理解できなかった。

しかもこんなふうに、たった2時間前の記憶のせいで混乱している自分を、きっと20年後の自分は顕微鏡をのぞきこむ博物学者のように思い出すことができるだろう。

畳にあお向けに倒れて、2時間を経過させるということは簡単ではないが苦痛でもなかった。時間はいくらでもあった。そして電話が鳴った。

「もしもし。上杉です。本人はいないんですが」
と応えた。変な文章だ。
「高岡だろ?」
と電話は言った。

小林が、機材と資金を借りに交渉に行っていた先から掛けてきたのだった。地名は分らなかったが、実は歩けば歩いて行けたほどの所なのだった。
「すぐに帰る」
電話の小林が言った。

「待っている」
ぼくは言って電話を切った。雨はまだ降っている。

いつか、ぼくはこの晩のことを思い出すことがあるだろうか。その時、ぼくは何を思い出すのだろう。窓の外で降っているこの雨は、ぼくが思い出す時もやはりまた降るだろうか。






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98-12-28