[蒼街から]



間奏




http://www.infonet.co.jp/apt/March/BlueCity/Interlude.html



駅に降り立つと、もうそこは別世界だった。右手にイトーヨーカドーとセイユーが見えたが、全体には、そこはひなびたいなか町だった。駅前には盆踊りにでも使えそうな櫓が組まれていて、くくりつけられた3本のラウドスピーカーは、割れた声で昔の軍歌をどなるように歌っていた。

ここまで来るのが大変だった。池袋から西日暮里まで山手線で行って、千代田線で我孫子にたどりつくまでに2時間かかった。我孫子で常磐快速に乗り換えたが、快速では取手までしか行けないのだった。ホームで1時間待って普通列車にやっと乗り、目的の駅に着いた時は、もうとっくに昼を過ぎていた。下宿を出たのは朝の9時だった。

駅の左手には木造の待合所があった。ぼくはそこへ行って、学園都市へ行くには、何番のバスへ乗ったらいいのか尋ねた。5番の乗り場からバスが出ているが、あと30分は出ない、とのことだった。ぼくは待合所の中にあるハンバーガースタンドで、名物佃煮ハンバーグを買って食べた。抹茶シェイクは少し苦かったけれど、なかなかおいしかった。

9月というのにまだまだ暑く、空はいまにも雨が降りそうに重かった。外のベンチでぼくがシェイクの残りを啜っていると、ナタ売りが現れた。ナタ売りは、黙って一本のナタを差し出した。受け取ってみると、それは刃渡り70センチはあろうかという大ナタで、刃肉はふつうのものよりも薄かった。あとで聞いたところによると、これはレンタルもしていて、レンタル料は一日300円ということである。もっとも、レンタルは会員にしかしておらず、入会金は1万円だそうである。

5番のバスを待つ客はほとんど会員だったらしく、手に手に300円をナタ売りに渡してナタを借りていた。10本ぐらいしかないナタはたちまち品切れになってしまった。

よく見ると、自分用のナタを持っているのも何人かいた。

そのあとも、次から次へと物売りが現れた。赤く錆びた鳥かごを背負った鳥飼いがいた。安物のガラス玉をザルに入れて、みやげにどうだべ、と言っている十六、七の女の子がいた。キュウリを縦に半分に切って、ゴマを振りかけたものを売っている男の子もいた。木造の待合室のひさしの下では、男がコンクリートに直接、炭を置いて、トーモロコシを焼いて売っていた。

バスが来る前に雨が降り始めた。滝のような雨だった。たちまち道路は水びたしになり、ぼくたちは木造の待合室へ逃げ込んだ。

待合室の中では、クモを闘わせてバクチをやっている一群が、大声で
「ぺっ、ぺっ、ぺっ、ぺっ」
と叫んでいた。札束の代わりに土地の権利書が行ったり来たりしているのを見て、軽い目まいを感じた。

雨はますますひどくなり、雷鳴が響き渡った。みんな、このぐらいの雨には慣れているらしく、動じるものは一人もいなかった。ガラス玉売りの女の子が、ポスターの貼られた壁に寄りかかって、ぼんやりと外の景色を眺めていた。鳥飼いの鳥だけが、雷の音におびえて、雷光の輝く時には美しい唄を歌うのを止めてしまうのだった。

ぼくはバスが時間通りに出るか心配になり、ひさしのはずれから空を見上げていた。ぼくの顔色を見てか、隣にいたたくましい老人が
「大丈夫、関東鉄道の運転手は一流揃いだ。定時にバスは出て、たとえどんなことがあろうとも、定時にバスは着く」
と自信ありげに言った。

老人のことばに答えるように、バスは時間通りに停留所に着いた。待合室の乗客は、次々とバスに乗り込んだ。子豚を連れ込もうとしたおばあさんが、バス会社の職員とやり合う一場面もあったが、年寄りのかたくなさには職員の方が根負けしたのか、ほかの乗客に迷惑をかけないことを条件に、子豚はバスに乗ることを許可された。もちろん、これはぼくの推測に過ぎない。何しろ、二人の会話は高速の地元弁で語られたので、ぼくにはクモを闘わせていた連中が喋っていたのと同じく、
「ぺっ、ぺっ、ぺっ、ぺっ」
としか聞えなかったからだ。

バスは時間より少し遅れて発車した。車内は大学生とおぼしい連中と、近在の農家の人で一杯だった。ぼくは運よく窓ぎわに積をとれたので、バスが通り過ぎる市街を見ることができた。

デパートやファッションビルの間をぬうようにして小さな商店が並び、裸電球を軒先で光らせていた。それは、新宿西口の小便横町や上野のアメ横に似た光景だった。

5分も走らないうちに市街地は終わってしまって、国道を横切ると、もうそこから先は田畑が広がっていた。激しい雨のために遠くの風景はかすんで見えた。その田園風景もすぐ終わり、バスは林道を走り始めた。鋪装されていない道路は、学園都市建設のトラックのためにデコボコにされていて、ぼくたちは何度も天井まで放り上げられた。降り続く強い雨のために、道路は川のようになっていた。そんな道を、バスは右に左に腰を振ってスリップしながら、高速で走り続けた。
「たとえどんなことがあろうとも、定時にバスは出て、定時にバスは着く」
と言った老人のことばをぼくは思い出していた。

時間より遅れて発車した運転手は、遅れを取り戻そうとして、必死になっていた。遅れを取り戻すことができたのだろう。四つ目の停留所を過ぎて、バスはやっと時速60キロの巡航速度に戻った。乗客はみんなこういう事態には慣れっこになっているらしく、ブウブウ言ったのは子豚だけだった。

バスが進むにつれてますます道は狭くなり、林は森となり、人家などまるで見えなくなってしまった。道路は本当に川になって、水が音をたてて流れているのが、バスに乗っていてもよく分った。水の流れに逆らって、バスは時速60キロで進んだ。ドロのために、時折車輪が二度三度空回りをするのが感じられた。

ぼくはまるで時間を逆行しているような錯覚に落ちていた。本当に、この先に学園都市があるのだろうか。バスは樹海の中をドロまみれになって走り続けていた。

七つ目か八つ目の停留所から、木立ちごしに、まだ新しい茶色の建物が見え隠れするようになった。
「次は平砂学生宿舎前」
というアナウンスがバスの揺れに合せてワウフラッターしながら聞えた。ぼくが高岡から聞いていた停留所だった。誰かがす早く押したらしく、停車ボタンが赤く輝いた。

平砂学生宿舎前で、10人近い人間がバスを降りた。みんな、降りる前にレインコートをはおり、手にはレンタルのナタを握りしめていた。ぼくはレインコートもナタも持っていなかった。雨は遠慮なくぼくの体を濡らした。木の速い一団は、ナタを振り上げながら、雑草や低木をなぎ払っては、道らしい所に敷いてある板を頼りに歩き始めていた。

ぼくは不安になって、黄色いレインコートを来た女の子に尋ねた。彼女はきれいた目をしていて親切そうに思えたのだ。
「平砂学生宿舎へ行きたいんですが」
雨の音に負けないように、ぼくは大声で言った。
「あたしたちも平砂学生宿舎へ行くのよ」
と彼女が答えた。そして、レインコートもナタもないぼくを見て気の毒に思ったのか、ついて来るように言ってくれた。

先頭グループがなぎ払ってくれたとは言え、ここの草木は以上に成長が早く、彼女がナタで草木を切ってくれなければ、ツタや低木の枝にはばまれて、ぼくたちは前進できないのだった。

木の板を渡しただけの道は雨に濡れてすべりやすく、ぼくは足を踏みはずして水たまりの中へ靴をつっ込んだ。水たまりの中から何か小さなものが飛び出して、ぼくの体にへばりついた。彼女がす早く気づいて、ナタの柄でそれをたたき落としてくれた。

ぼくに飛びついたのは大きなガマガエルだった。こいつたちは人間に飛びついては毒液をあびせかけるのだ。ナタが必要なのにはもう一つの理由があったのだ。

木の上には、1メートル以上はあるアオダイショウがからみついているのが見えた。ガマガエルを食べて生活しているのである。思わず目をそむけると、林の向こうを直径50センチぐらいのカタツムリが虹色に光るカラをゆすりながら移動していた。カタツムリに見とれたのがいけなかった。ぼくはまたも足を滑らせてバランスを崩し、道端の小さな池に落ちてしまった。
「助けて」
とぼくは叫んだ。体がどんどん泥の中へ引きずり込まれていくのだ。彼女が振り向いて、顔色を変えた。

彼女は手近なツタを切り、ぼくに投げてよこした。ぼくはツタをつかんだ。彼女はツタのもう一方の端をそばの木にくくりつけ、自分もツタを引っぱってくれた。ぼくもけんめいにツタを引きずり寄せて池からはい上がろうと努力した。

やっともとの道まではい上がった時、ぼくも彼女も完全に放心状態だった。体中の力を使い果たしたような気がした。雨はたえまなくぼくたちに降り注いでいた。

「ありがとう」
ぼくはあえぎながら言った。
「あそこは底無し沼なの。もう二人死んでるわ」
と彼女は答えた。
「なぜ、こんなところまで来たの」
「友だちがいるんだよ。いきなり行ってびっくりさせてやろうと思って」
「そんな甘い考えでは、ここでは友だちに合う前に神様に会うことになるのよ。」

彼女は立ち上がった。
「さあ、時間がないわ。もうすぐ暗くなるわ。夜、宿舎の隣の建物まで遊びに行こうとして、そのまま神様の所へ遊びに行くはめになった人は何人もいるのよ」
彼女はぼくにも立つよううながして、再び先に立って歩き始めた。

ぼくを救出するために時間をくったので、先に行った人たちがなぎ払った草木はもう伸び始めていた。彼女はナタをふるって道を切り開いた。

宿舎についたのは、もう5時近かった。江古田の下宿を出てから8時間が過ぎていた。ぼくたちの目の前に、近代的な建物が並んでいた。
「平砂学生宿舎よ。あそこが共用棟。食堂と本屋と売店があるわ。おフロも」
ぼくは彼女にお礼を言った。

「友だちの宿舎はどれか分ってるの」
「Aの201だと思うんだ」
「思うんだ、では会えないわよ。ドアに名前を書いていないかもしれないし、だとすると、きょうは日曜日だから管理人の人もいないから教えてもらうわけにもいかないわ。しかたないわね。私も一緒に行ってあげる」
彼女の予想通りだった。彼女に案内されてAの201まで来たが、この部屋に住んでいるのは全然知らない人間だった。高岡の部屋は、どこか別の棟らしかった。
「時々、部屋の入れ替えがあるのよ。行動が目立つ学生は特定の部屋に移すの。盗聴機がしかけられているっていう、もっぱらの噂だけど」

彼女はぼくを自分の部屋に連れて行った。建物の入口には小さな箱があって、彼女はプラスチックのカードと一緒に、ナタをその箱に放り込んだ。
「どの建物にもこれと々箱が置いてあるの。ナタを入れておくと、業者が毎日回って来て回収していくの。返しておかないと追加料金を取られちゃうのよ」
階段を上りながら彼女は説明してくれた。

「さあどうぞ。狭い所だけど」
彼女の部屋は、6畳を細長くしたような形をしていた。ベッドとデスクとクローゼットがついていた。窓には女の子らしいカーテンが掛かっていた。
「濡れて気持ち悪いでしょ。私のTシャツとジャージでよかったら使って」
そう言って、彼女はロッカーからタオルを出してぼくに渡した。そして、ぼくがいるのもかまわないで全裸になると、自分は別のタオルで体を拭き始めた。

「オフィスにでもあるようなロッカーだね」
彼女が使っているロッカーを指してぼくが聞くと、
「備え付けなの。どこの部屋も同じよ。ベッドやデスクも。早く脱いで体を拭かないと、かぜ引くわよ」
と彼女は答えた。

ぼくも言われるままに服を脱いで体中を拭いた。僕が体を拭き終わった時には、彼女はもうシャツとジーンズを身につけていた。ぼくは、彼女の、色白で胸の豊かな裸体に、精神的にはかなり興奮していたのだが、雨と沼の水で冷えきった肉体は反応しなかった。ぼくは彼女が差し出したTシャツとジャージを身につけた。Tシャツはぴったりだったがジャージは少しきつかった。でも、どちらからも彼女の匂いがして、ぼくはやっと勃起した。

フロアのホールには乾燥機があり、濡れた服はそこで乾かすことができるのだった。ぼくが乾燥機のタイマーをセットしている間、彼女はベッドに掛けてぼくを待っていた。

ぼくは、彼女の隣に並んで腰かけた。彼女がぼくに聞いた。
「これからどうするの。あなたの友だちを捜しに行くの。全部で一千室はあるわよ。それとも食事に行く。それともセックスする」
「自己紹介するのはどうだろう。ぼくは君の名前を知らないし、君だってそうだろう。」
「知らないままでいいんじゃない。謎のない人生なんて、つまらないわ」
「じゃあ、食事にしよう」

その晩、ぼくは彼女の部屋へ泊めてもらった。彼女はぼくの最初の女性だった。

次の日は晴れていた。シングルの狭いベットに二人で寝たので、体が少し痛かった。

「時間が流れていくのが、ここにいるとよく分るの。毎日新しい建物が建って、新しい道路ができていくの。きょうは森の手前で行き止まりになっている道が、あしたは森の向こうまで伸びているかもしれないの。それに合せて、私たちも変化していくんだわ。きっと、1年もたったら、あなたは私のことなんか分らなくなっちゃうわね。」
ぼくは、彼女の乳房に手を置いて、その冷たさを楽しみながら
「そうかもしれないね」
と答えた。

帰るのは、晴れている分、楽だった。それでも下宿へたどり着くまでには6時間かかった。

1年後、ぼくは高岡に会いに再び学園都市を訪れた。学園都市はまるで姿を変えていた。林はほとんどなくなり、広い高速道路が走り、建物は異常に増えていた。喫茶店やパチンコ屋、ホテルさえできていた。学生たちのファッションもカラフルになり、もうナタを持って歩いている学生はいなかった。

食事をしに、高岡と平砂の共用棟の前まで来た時、フレアスカートの、髪の長い美人が共用棟の階段を降りてきた。彼女だった。彼女もぼくに気づいたに違いない。それでも、ぼくたちはお互いの1年が長い1年だったことを知った。彼女の後ろから、背の高いアイビールックの男がかけ降りてきて彼女の肩をたたいた。彼女はその男と腕を組んで、階段を降りていった。

ぼくは一人でほほえんで、高岡のあとを追って共用棟の中へ入っていった。






Copyleft(C) 1996-98, by Studio-ID(ISIHARA WATARU). All rights reserved.

最新更新
98-12-28