資料シート/[三月劇場]

テアトルオプティーク
TheatreOptique

http://www.infonet.co.jp/apt/March/syllabus/bookshelf/TheatreOptique.html




 テアトルオプティーク(Theatre Optique、光の劇場)は、映画(厳密にはシネマトグラフ)以前のビデオシステムの一つで、短いながら直線型のビデオを再生することができた。

 1832年のフェナキストスコープに始まる多くの先駆的なビデオシステムは、たかだか1〜3秒ぐらいの短いビデオしか再生できない(したがって必ず循環型)という制約を共有していた。これはたいへんに大きな制約で、この長さでは何かの運動を見せることは可能でも、メッセージとかストーリを表現することはほとんど無理だった。
 フランスのReynaud(レーノー、Emile、1844-1918。▽図)は、自分が発明したプラキシノスコープを改良して、1888年に、テアトルオプティーク(Theatre Optique、光の劇場)を完成させた。



Reynaud
(資料[Cinema]より)

 プラキシノスコープもテアトルオプティークも、(最初の)像が現れるのはプレーヤの中心に立てられた正多角形柱だ。この柱は鏡を貼り合せてできていて、正面の鏡の中に動く像が虚像として現れる。
 プラキシノスコープでは、この柱の外側に円筒があって、フレームが描き並べられた帯は、環にしてその内側に取りつけられていた(▽図左)。これに対してテアトルオプティークには、送り出しリールと受け取りリールがあり、フレームの帯は送り出しリールから繰り出されて、正面の鏡の前を通り、受け取りリールに巻き取られていくようになっていた(同右)。



テアトルオプティークの概要
(資料[Cinema]より)

 鏡の柱と連動させる必要が生じたので、帯には送り穴(perforation)が打ってあった。フレームの大きさが 5cm×4cm と大きく、基材が布だったことを除いては、テアトルオプティークの担体は現在の映画のフィルムにほとんど等しいところまで進化していた。

 プラキシノスコープとそれ以前のシステムでは、ビデオを構成するフレームの枚数は、あらかじめプレーヤの構成(鏡の枚数)によって決められていた。テアトルオプティークでは、この制約がなくなって、原理的にはどんな長さのビデオでも(実現したのは1〜2分ぐらい)再生できるようになった。この改良によって、ビデオは、(動かないはずの)絵が動いているのを見て驚くだけのガジェットから、作品を通じてメッセージやストーリを表現するメディアに変化することになった。という使い方がつけ加えられ、その後のビデオの使われ方を大きく変化させた。

 また、テアトルオプティークのプレーヤは、鏡の中に虚像を見せるのではなく、その像を2〜3mぐらいの幅のスクリーンに投影するように作られていた。これによって、(演劇の公演と同じように)何十人もの観客が同時に一つのコンテンツを鑑賞することが可能になった。このこともメディアとしてのビデオにとっては一つの革命になった。

 1892年から、Reynaudはパリのクレバン博物館でテアトルオプティークの継続的な興行を始めた。この興行は(少なくとも当初は)好評を博し、1万2800回の公演で、延べ50万人の観客が入場した。
 それぞれの公演では、10〜15分にわたって、伴奏のもとで"Autour d'une cabine"(海水浴場の着替え小屋を舞台とするコメディ)、"Pauvre Pierrot"(青年の悲恋)などの作品が上映された。興行の主旨は、珍しい技術を披露することではなく、あたりまえの娯楽を提供することにあった([秋田])。実際に、作品の多くは単純ながらも明確なストーリに基づいて構成されていた。
 これらの作品の構成や作画はReynaudが一人で行なっていた。一つの作品に対して500〜700枚のフレームが描かれ、すべてに色がつけられていた。また、機器の操作もReynaudが担当した。Reynaudはもともと装置の開発から作品の制作、さらには上映の企画やパフォーマンスに至るまで幅広い活動を展開していた(今だったらきっとメディアアーティストって呼ばれてただろうね)ので、こうした仕事に打ち込めることが本人にとっては重要だったのかもしれない。

 1895年にシネマトグラフ(Cinematographe)が登場すると、観客の興味はテアトルオプティークから離れていった。その理由の少なくとも一つは、シネマトグラフは手描きだけでなくライブ(live。実際の運動をカメラで標本化しながら記録する手法)でも撮影することが可能だったため、新作を次々に発表できたことにあるだろう。この傾向に気づいたクレバン博物館は、テアトルオプティークにもライブを取り入れるようReynaudに要請したが、Reynaudはそうした変更には積極的ではなかった([秋田])。そして、1900年にテアトルオプティークの興行は終了した。
 皮肉なことに、メディアそのものよりもそのコンテンツに目を向けるようにビデオの観客を育てていったのは、Reynaud自身の業績だった。しかも、シネマトグラフの発明にあたって、テアトルオプティークがすぐれた手本になっていたのは間違いない。
 Reynaudは、すでに1889年01月14日にテアトルオプティークの特許を認められていた。これは、Reynaudも初めのうちはテアトルオプティークの普及を期待していたことを暗示している。しかし、テアトルオプティークはしだいにReynaudの演技とは分離できない(=他人には使えない)特殊なシステムに変化していった。そのため、テアトルオプティークに賛同する作家や興行家も現れなかった。
 テアトルオプティークの作品のほとんどは失望したReynaudによってセーヌ川に投げ捨てられた([秋田])といわれている。




参考にした資料

秋田孝宏
「コマ」から「フィルム」へ
−マンガとマンガ映画−
(NTT出版, 05-08-04)


ジャンクション



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