アナログによる方法は、名前という規則を通さない分だけ、
デジタルによる方法よりも、いろいろなことがらをより直接に表現する考え方だといえる。そのため、正確でしかも効率もいいと考えられている。しかし、このような受け止め方はほんとうに正しいのだろうか。
少なくとも、
アナログによって(アナロジによって、というのが正しい言い方だけれど)表現できることがらは、そもそも限定されていることに注意しよう。
アナログはことがらを磁気の強さや電圧の高さ(や、その時刻に沿っての変化)でなぞらえて表現する。だから、
アナログでは数量(や、その時刻に沿っての変化)しか表現できない。それ以外のことがらは、まず数量に置き換えておかなければならない。ここに、ずいぶん無理があることはわかるだろう。それを整理してみよう。
○数量に還元できないかもしれない
数量化できない情報の方が多い(たとえば文章とか楽譜とか演技のような)。無理に数量に翻訳してしまっても、かえって活用できなくなる。
○余分な意味が勝手に生じる
実際のところは、私たちが見聞きするほとんどのことがらは、うまく番号をつけることによって確かに数量に置き換えることができる。しかし、うまく番号がつけられたとしても、番号は名前でしかなくて意味はないということがいつも無視される。ただの番号を足したり引いたり大小を比べたりしてしまう誤りはいつも起こる。
○複数の
属性を唯一の
属性に平均しなければならない
ちょうど、6科目の成績を記録しておく場合に、(別々に記録しておかなくてはいけないのに)平均してしまうようなものだ。それによって、ほかの科目は極端に成績が悪いけれど数学だけはいい、といった特徴は失われてしまう。
アナログの方が
デジタルより人間的だ、なんて考えるのは、だから大間違いだ。
アナログの思想は、
蒸気と
電気の技術の展開にともなって形成された思想で、近代からこちらのヨーロッパ的文化と深く結びついている。それは決して普遍的ではないし、古典的でもない。
少なくとも、数量では表現できないものや、部分と全体との構造として成り立っているもの(たとえば人間もその一つ)は
アナログでは表現できない。
"私はアナログな人間で"なんて口にするのは、自分が
平均点でしか世界を理解できない人間だと言い振らしているようなものだ。それでもいいのかな?
もちろんデジタル技術だってオールマイティじゃないけど、人間的か機械的かっていう話しだったら、デジタルの方がアナログよりずっと人間的なんじゃないかなぁ?