−ずいぶん派手な題だけど...。
スタッフからも反対されたんだけど、監督の特権で無理やり"愛のフレームアウト"に決めたんです。だって、さりげなさそうな題って、実はうんと深刻だったりするじゃないですか。それが嫌で。
映画に限らず、ものに名前をつけるってちょっとした労働ですよね。やりたくないです。とっても。味わいのある名前がついちゃったりすると、何だか、そっから、表紙の先に進めなくなりそうで。それに、僕の場合、うまいタイトルをつけたつもりになったら、実は軟弱文学青年風のに流れてるって、自分でも分かってるんで、なお嫌だったんです。
由が自分のいた所をなくしてしまって、そこからはみ出して行って、消えて、見えなくなってしまうのが、ほんとに悲しいと思ったから、"フレームアウト"ってつけたんです。映画に近い所にいる人にとっては、このことばは日常的で軽い技術用語にすぎないんですよね。だから悲しい気分が少しは紛れると思ってつけたんだけど、どうでしょ?
でも、悲しいってったって、自分で作った架空の人格なのにね。
"愛の"はダメ押しです。タイトルが出る時は、ここだけピンクにしてちかちかさせようとか思ってたんだけどね。
[愛のフレームアウト]という題名も、そういえば確かに、考えていたことがありました。
−筑波大学って実名が出てくるけど、この映画は筑波大学に対するアジテーションなの?
いいえ別に。
筑波大学で撮ったんだから、あえて別の名前をつける必要もないだろうと思って。それに、映画を見に来る人の中には嫌な性格のがいて、あ、あそこは俺のアパートのすぐ前の公園じゃん、とか、余計に実際の名前を詮索されるんですよね。
アジテーションなんて別に考えていません。もし、この映画から何かを読み取った人がいるとしたら、その何かってのは僕が言ってるんじゃなくて、その人がいつも考えてることとか、気にしてることが出て来てるだけなんだと思います。
筑波大学ってのは、今はこういう状態にある大学なんだけど、この映画では、それが、避けることができない、僕たちのたった一つの現実の風景なんだってつもりで引用してきたつもりです。
−アジテーションじゃないとしたら、たとえば、由くんはあなたの代弁者とか、そんなことはないの?
まさか。たとえば僕は留年とか浪人とかそういうのの経験はないし。正反対かも。身の振り方だけはまだ決まってないけど。
ただ、僕は、由を"お前ら"と呼ぶ側に立つつもりはない、ということは、はっきり言えます。肩組んで"俺たちは連帯してるよな"なんて言えるほど身の程知らずではないだけです。
−この映画を作って苦労したのは?
筑波大学で筑波の学生が出てくる映画を撮ってるんですから、裏も表もないんですよね。
高校生が8mm映画でいいのを作って
PFFで賞を取ったりなんかするでしょう。そんな映画を見ていて、自分の中に、映画みたいにおとながすることを子どもがよくまねをしているなぁ、という気分が湧いてくるのを、自分では嫌だと思っていたんです。作家と作品とを対比していいとか悪いとか評価するのは、嫌なんです。まして、おとなのまねだなんて考えてしまうなんて。
苦労と言えば、ただ一つ。観客が、作りごとだとは感じないドラマにしたかったんです。もう完成している技術のまねがどれだけじょうずにできたかじゃなくて、内容で観客を圧倒することがいつかできるようになったら、と思っています。
−内容で観客を圧倒する?
ほんとらしく撮ってるけど、実はあんなことってないよな、とか、そうじゃないんだよ分かってないよ、とか、そんなことがないようにしたいんです。観客が本気になって見てて、見ている間も、見終わったあとでも、現実の自分と作品の内容とを見比べてもずれを感じないですむような、ってことです。結局はうんとリアルな、ってことかもしれません。
どんなに筋書きがおもしろくても、その夢にすんなりはいって行けないようじゃ、ドラマは失敗だと思うんだよね。
−ドラマはこれまではどんなのを撮ってきたの?
これが初めてです。でも、毎年、1本は撮ろうとして結局はできなかったってことを何度も繰り返してきましたが。
−今までの井戸映画とはずいぶん違う?
今度のは、
鉄本が書いてくれた脚本のプッシュが大きくて、それで流れないですんだんだと思ってます。ドラマを映画で撮るってのが、こんなにおもしろいことだったなんて、実はよく分かってなかったんです。食わず嫌いで。
−もうこれで映画も卒業?
まさか!また撮りますよ。今度はもっとストーリーが前に出る映画にしたいんだけど、どうなるかなぁ。
−なぜフィルム?ビデオじゃなくて
簡単なことなんだけど、ビデオってのは、見てるところを他人に見られちゃうんだよね。それが恥ずかしくって。映画だと自分だけで泣いたり笑ったりして見てていいから、そこがうれしいんだよね。