僕はよく写真のプリントの代わりにゼロックスを使う。学群の4年生の春、
僕はそれまでにプリントした約100点の写真を、ゼロックスでコピーして綴じ合せ、通いの
喫茶店に置かせてもらった。半年たって、その
店が潰れたあとで、何人かの知人を経由して、写真集は
僕の手元に帰って来た。
僕は今でもその写真集を持っていて、時々ぱらぱらとめくっては、この写真集を手に取ったであろう人たちのことや、その人たちが聞いたであろうボブ-ディランのかすれ声のことに思いを馳せる。
写真集の所々には書き込みがされている。その中に、"なぜコピーを持って来たのかわからない" という一文があった。初めてこの質問を突きつけられた時には、
僕にも、これにどう答えていいのかよく判らなかった。今では、完全とは言えないけれど、少しだけ答えることができそうな気がする。
僕は他人にペーパープリントを見せるのを嫌っていたのだ。プリントというのは、映像をただ紙に転写しただけのものではない。独特の渋いつやや、匂いや、湿り気や、場合によってはフィキサーが飛び散った薄い染みなんかを寄せ集めたオブジェが、プリントなのではないだろうか。プリントには、その写真を撮ってプリントした人のからだや生活の延長が染みついてしまっている。
僕が身内だけにひっそりとプリントを見せる時、
僕は、写真の内容を見てもらうのではなくて、その写真をプリントした自分を見てもらっているのだ。
前に
[フレームアウト] という映画を撮った。まだ未完のままだけれど。クランクアップのあとで、
僕は周囲の人々にこんなことばかり言っていた。"観客に作り物として見られたりしない作品にしたかったんですよね。あのシーンは新宿なんて言ってるけど、本当は千束町だよね、なんて、そんな見方は抜きにして、ドラマそのものでコミュニケーションをしていけたらって思っていたんです。" 内容そのものではなく、制作の裏話とか、自分の心情とか、そういったものを通じてしか評価されない映画ばっかり作って来たことに、
僕は少し憂っとおしさを感じるようになっていたのだ。
プリントとゼロックスとは同じ"もの"ではない。機械から取り出されたばかりのゼロックスには
僕の生々しい生活は染みついていない。そこにあるのは、オリジナルの持っていたたくさんの情報のうちの映像という限られた成分だけだ。
僕が提示したくてたまらなかったものだけが、ゼロックスによってオリジナルから写し取られていることに、
僕は満足していた。
僕が
[幻想都市] にゼロックスというフィルターをかけたのは、制御できない
僕の何かを写真集の中に小出しにしてしまわないためなのだ。論理的な理由があるとすれば、これだけのことだと思う。だとするなら、このフィルターは、実はゼロックスでなくてもいいのかもしれない。たとえば普通の印刷でも。でも、その頃の
僕にとっては、ゼロックスは唯一の頼りがいのあるメディアだった。そして、ゼロックスは
僕の期待によく応えてくれた。
僕は
[幻想都市] を作ることもあればコーヒーを飲むこともある。今は、へやの明かりを消して、窓の外を流れて行く朝靄を黙って見ている。この意味で、誰もが多面体だ。自分の中の一つの要素を輝かせて、その輝きを何かに焼きつかせることを創作と規定することは正しいだろうか。自分の中に埋もれている輝点を慎重に択り分けるために絵筆やのみを使う人たちがいる。だから
僕はゼロックスを使った。
僕は目をつぶる。