戻る 鎌倉幕府を滅ぼした山伏たちの情報網 (情報伝達)


 鎌倉幕府の滅亡、建武中興、南北朝の争乱と続く十四世紀の大動乱時代、 宮方(天皇方)は修験道(しゅげんどう)の山伏たちによって、 全国的に緊密な情報網を張り巡らしていたと云われる。

 山伏たちは相互に強い連携を持っていた。 それは、彼らが一所不住であったことと、しばしば集団で行動したことによる。 かくて、数の上では絶対的に優勢な鎌倉幕府軍を敗って、一時的にもせよ成立した、天皇親政の建武中興は、 宮方に立った山伏たちの全国的なネットワークに支えられたものであった。

 そもそも、異形の帝王と評される後醍醐天皇によって企てられた建武中興なるものは、 それまでの武家による支配体制に対して、 公家と社寺という保守勢力が起こした反動的復古運動であると云うのが最近の見方である。

 後醍醐天皇の影にあって、それを画策したのが醍醐寺の座主文観である。 醍醐寺は修験道を体系化した理源大師聖宝 (りげんたいししょうぼう) が開き、 後に、修験道当山派の総本山になる寺である。 かくて、文観の人脈と醍醐寺の寺縁によって全国の修験系の寺院が、その倒幕運動に加わり、 これが宮方を支える基盤となった。

 元弘元年、倒幕の密議が露見した時、 後醍醐天皇が逃げ込んだ笠置山は文観の相弟子聖尋が統べる寺であったし、 後醍醐天皇の皇子護良親王が挙兵した吉野山の金峯山寺は醍醐寺系の寺であり、いずれも、修験山伏たちの寺である。

 そして、赤坂城に挙兵し千早城を死守する楠木正成は、河内天野の金剛寺の荘官であったと見られているが、 この金剛寺の学頭は文観の弟子禅恵であり、 また、楠木一族と関係が深い観心寺は、やはり、文観の弟子光賢が座主であった。

 後醍醐天皇の隠岐流配を追跡し、院庄で有名な十字の詩を桜の幹に刻んだ児島高徳は、 熊野の山伏たちが開いた児島修験の人物である。 隠岐に流された後醍醐天皇が密書を送った出雲の鰐渕寺 (がくえんじ) は天台修験の古刹であり、 また、隠岐を脱出した後醍醐天皇を擁した名和長年が立て籠もった船上山 (せんじょうざん) には、 大山寺 (だいせんじ) の僧兵たちが駆けつけるが、 大山寺もまた天台修験の山伏たちの寺である。 長年自身が大山寺の衆徒、信濃坊源性の兄である。

山伏の柴燈護摩  このような寺々を結んだのは、修験の行者、すなわち山伏たちである。 彼らは早くから全国的な組織を持ち、独特な情報伝達網を作っていた。 隠岐に流配された後醍醐天皇のもとへは、山伏たちによって常に密々の情報が届けられていたと云うし、 各地に蜂起した宮方の間も山伏たちによって連携がとられていた。

 山伏たちは数人で集団を作って、山の尾根から尾根へ、谷から谷へ、ましらのように駆けてゆく。 そして、情報は仲間から仲間へと受け渡されてゆく。

 後に、建武中興が破れて南北朝の争乱の時代になった時、 南朝方が根拠地にしたのは、楠木一族が荘官であった河内の金剛寺であるが、 そのことよりも注目されるのは、 奥州にあった北畠親房・顕家が居を構えた岩代国 (福島県) 伊達郡の霊山 (りょうぜん) もまた、 山伏たちの道場だったことである。 山伏たちのネットワークは遠く奥州の果てまでをも網羅していた。

 しかし、南北朝時代に入ると、修験山伏たちも二つに分裂する。 醍醐寺が、南朝側に立つ報恩院と、北朝側の三宝院に割れたことによる。 こうして、山伏たちの情報網も、もはや過日のような力を発揮するものではなくなっていった。

(附記)
 楠木正成の背景、そして、宮方 (天皇方) を支えたものを、 当時、荘園の散所 (さんしょ) の民や、社寺の神人 (じにん) 寄人 (よりうど)、 あるいは、公家などの供御人 (くごにん) などとして現れてくる商工業者、運送業者、 あるいは芸能集団などの新しい階層に置く見方もある。 この場合、建武中興は、武士と農民とで構成された従来からの社会体制からはみ出した、 土地に全く縛られることのない新興勢力による革命であると云うことになる。 その場合も、そうした、土地を離れた非定住的な人たち同士の独特な情報網が考えられる。

(2002年2月)


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(主な参考文献)
・永井路子 「続・悪霊列伝」 新潮文庫、1984年初版、
・永井路子 「異議あり日本史」 文藝春秋社、1989年、
・山崎正和 「室町記」 朝日選書、1976年、
・林屋辰三郎 「南北朝」 朝日文庫、1991年、