阪神淡路大震災とインターネット(ネットワーク) |
1995年1月17日の早朝に起こった阪神淡路大震災にまつわる、ある一つの思い出と、
インターネットとが、私の心の中では今も強く結びついている。
震災によって情報手段が悉く失われてしまった中で、神戸市の職員が、被害の様子をデジタルカメラで撮り続け、
それをインターネットで世界に送り続けた話は有名であるが、その話ではない。もっと個人的な思い出である。
18日の夕刻、大阪に住む私の所へ広島から電話が掛かった。
私の情報処理論の講義を受講している学生からである。用件は、
「私、成人式のために故郷の広島に帰ってるんですが、大阪へ帰るのを少し遅らせていたら、
この大震災で、山陽新幹線も在来の山陽本線もすべて不通になっており、
先生が20日に実施すると云っておられた期末テストに出席出来ませんが、どうしたらよいでしょう。」
と云うものであった。
私は、少し可哀想だとは思ったが、
「鉄道は山陽線だけじゃないよ。山陰線もあるよ。」と云って電話を切った。
テストの日、その学生はちゃんと出席していた。
「よく帰ってきたね。」と云うと、その学生は笑いながら、
「先生が講義されたインターネットの迂回路のことを思い出しました。」
その言葉が今も私の心の中に焼き付いているのである。
インターネットは米国のARPANETから発展したものである。
そのARPANETは1969年、米国国防総省が最先端の技術研究を行っている大学・研究所など
二十数カ所のコンピューターを結んで構築したネットワークで、
その目的とするところは先端的軍事兵器の開発を促進することにあった。
そのため、このネットワークは、ソ連からのミサイル核攻撃に耐えられるようにするために、
次の2つの条件を持つものとされた。
(1) ネットワークの一部が切断されても、それに代わる迂回路があること。
(2) 心臓部が破壊されたら、総ての機能が停止する集中型ではなく、分散型とすること。
電話網は各家庭に到る加入者線が交換局に集中した星形構造を採っているが、
インターネットは、このような構造はとらず、交換局に当たるようなものはどこにもない。
それは鉄道網に似ている。
つまり、どこにも、全体をコントロールするようなコンピューターは置かれておらず、
インターネットの中では、それに繋がるすべてのサーバーコンピューターは全く同等な立場にある。
どこにも独裁者や統率者はおらず、それを構成する個々のコンピューターの自主的動きで全体が動いていると云う
平等性・民主性を図らずも持つものであるために、世界を覆うネットワークにまで発展することが出来たのだ。
私は講義の中でこんな話をしたのだった。
それを、その学生は、はっきりと覚えていてくれ、思い出してくれたのだった。
こうして、私の中で、インターネットは阪神淡路大震災と切っても切れぬように結びついたのである。
(2001年9月)