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日本電話事始め (通信) |
明治四年(1871年)十一月、岩倉具視を団長とする遣欧米使節団には多数の留学生たちも随行し、
総勢は百七名に及んだ。留学生たちは米国に渡ると別れて、それぞれの大学で学んだ。
留学生の一人、団琢磨 (後に三井財閥の総帥) はボストンのマサチューセッツ工科大学で鉱山学を修めていたが、
1876年、同大学の教授アレキサンダー・グラハム・ベルが電話を発明し、その公開実験が学内で行われることになった。
そこで、団は、近くにいる留学生仲間にも見に来ないかと誘った。
大勢の人たちが集まると、ベルは大講堂の端から端へ電話線を張り、
実験を行いたい希望者は申し出てもらいたいと告げた。
真っ先に飛び出したのが、同じボストンのハーバード大学で学んでいた金子堅太郎 (後に枢密顧問官) と
伊沢修二 (後に東京音楽学校長) であった。
伊沢が 「halloo, halloo」 と呼びかけ、金子が 「halloo, halloo, very good, Mr.Izawa」 と答える。
それを聞いていた伊沢は、「不思議だ、不思議だ。実に良く聞こえる」 と日本語で独り言を云う。
金子の耳にそれが聞こえる。
金子は、「伊沢、この機械は素晴らしい。日本語も聞こえるぞ」と、興奮して、素頓狂な声で云ったので、
他の日本人留学生がどっと笑った。しかし、米国人たちは何がおかしいのや判らず、厳粛な顔をしていた。
この話は、海音寺潮五郎が短編の随筆として書いているものである。(題名は「最初の電話と日本人」)
しかし、この種の話は、何処までが本当で何処までが嘘か判らないもので、
NTT 社の 「電話100年小史」 は、金子と伊沢がベルの下宿を訪ねて、通話を試みたとし、
最初の言葉も 「オイ、金子君聞こえるか」 であったとしている。
私は、ベルの下宿を訪ねたと云うのは不自然に思われるので、海音寺の話の方が本当ではないかと思うが、
それにしても、最初の呼びかけの言葉が「halloo」であったと云うのは本当ではなく、彼の創作臭いように思う。
それと云うのは、グラハム・ベルは電話を発明した時、呼び掛けの言葉として
「アホイ」(Ahoy)(もともとは船員が船を呼び止める言葉) と云う言葉を考えていた。
後に、トーマス・エジソンが 「ハロー」(Halloo)(もともとは猟師が猟犬を励ます言葉) を提案し、
これが一般に用いられるようになったと云う。
従って、その時、伊沢と金子が「ハロー」と云ったというのは、どうも後の修飾である。
それにしても、その事があった翌年、明治十年 (1877年) には、日本は既に電話機二台を輸入している。
当時の我が国は先進技術のを導入に懸命であった。
輸入した電話機は赤坂御所と青山御所の間に架設した電話線で結ばれ、
明治天皇・皇后・皇太后の御三方で初通話をしていただいたと云う。
しかし、我が国では電話が一般に実用化するまでには、なお十年以上が必要であった。
明治二十二年 (1889) 一年間を限って東京・熱海間で商用実験が行われ、
翌二十三年から加入者を募集して東京・横浜間で電話交換業務が開始された。
欧米のほとんどの国が1880年代前半に電話交換を始めていることを見ると、随分遅れたスタートであった。