戻る 古代オリエントのメディア王国 (メディア)

 メディア (media) とは、メディウム (medium) の複数形であり、 何事によらず 「媒介する物」 と云う意味である。 しかし、現在一般には、専ら、情報伝達を媒介する 「情報メディア」 の意味に用いられており、 なかでも、マスメディアの意味に用いられている。 従って、メディア王国と云うと、世界のマスメディア業界に巨大な勢力を築いている リパード・マードック氏を指す言葉と思われている。

メディア王国 しかし、西アジアの歴史をひもとけば、メディア王国というのは、 イランの北西部のザクロス山脈の山岳地帯から興り、紀元前7世紀頃には、 イラン・アッシリア・カッパドキア・バクトリアをも領した広大な王国の名前である。

 メディア人は、もともとは南ロシアのステップ地帯で半農半牧の共同生活を営んでいたが、 次第に南下して、オリエント世界に進出してきたイラン系民族の一部族であり、 後にペルシャ帝国を築いたペルシャ人とは極めて近縁の部族である。

 メディア人たちは、紀元前14〜15世紀頃にはザクロス山中に住んでいたが、 紀元前8世紀に現れたダイウック (ギリシャの歴史家ヘロドトスが伝えるディオケス) が、 メディア人諸部族を統一し、エクバタナ (現在のハマダン) を都とし、メディア王国の基礎を置いた。 しかし、その頃、オリエントはアッシュルから興り巨大な版図を擁した軍事帝国アッシリアの支配下にあり、 そのため、メディア王国もアッシリアの一つの属国に過ぎなかった。

 ダイウック (ディオケス) の跡を継いだフラオルテスは東に南に王国の拡張を図るが、戦場で命を落とす。 その子キュアクサレスは、紀元前612年、大帝国アッシリアの都ニネヴェを、 カルデア王国 (新バビロニア) と共同で襲撃して陥落させ、遂に、アッシリアを滅亡させる。 こうして、オリエントは、メディア・カルデア (新バビロニア)・リュディア・エジプト の4つの王国の併立の時代を迎える。そして、メディア王国の領土は、 現在のイラン・アフガニスタン・パキスタン西部・トルコ東部にまたがるものであった。

 しかしやがて、王国の東南部パルサの地にいたペルシャ人たちは、アカイメネス家を王にいただき、 次第に王国を形作ってゆく。 その4代目のカンピュセスはメディア王家の王女マンダネを王妃に迎え、その間にキュロス二世を儲ける。 そのキュロス二世が紀元前550年、祖父の国メディアを戦いに破って併合してしまい、 ペルシャ人の独立を獲得したのみならず、さらに、これを契機として、 またたく間にリュディアを滅ぼし新バビロニアを滅ぼし、エジプトを除くオリエント世界を征服し尽くして、 古代史上最後にして最大の帝国の基礎を築いたのである。

 このようにして、メディア王国は史上から姿を消し、 メディア人たちも、同じイラン系民族であるペルシャ人の中に吸収され一体化してしまう。

 いま、メディアと云う言葉を口にする時、 この古代オリエントに栄えたメディア王国を連想する人が、どれ程いるのであろうか。


(追記)メディア王国がリュディア王国と戦っていた時、にわかに昼が夜になった。 紀元前585年5月28日に起こった皆既日食である。 どちらの兵士たちも怖れ戦いて戦うことを止めてしまい、このため、両国の間で和議が結ばれることになったと云う。 神秘にして荘厳なる天の営みには現代人といえども悠久を思わずにはいられない。 古代人はいかほどの衝撃をうけたことであろう。


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(参考文献)岸本通夫「古代オリエント」(世界の歴史2)河出書房、1968年。
数研出版(株) 「情報通信 i-net」 第17号 (2006年9月)に、 もう二つのメディア が掲載されています。 ぜひご覧下さい。