戻る 海津城の炊煙・・・そして軒猿 (情報収集)


 永禄4年 (1561年) 9月10日、 善光寺平の南、 千曲川・犀川の合流地点、 八幡原において、 越後の上杉謙信の軍1万3千と、 甲斐の武田信玄の軍2万とが撃突した。 世に云う川中島の戦いである。(正確に云うと、 川中島の戦いは全部で5回あって、 その第4回戦)
 これ に先立つ8月15日、 上杉謙信は1万8千の兵を率いて善光寺平に到着すると、 翌16日には、 5千の兵を善光寺に残して、 武田軍が守っている海津城 (後の松代城) の前を堂々と横切って、 妻女山に布陣する。 これを聞くと、 武田信玄もまた2万の兵を率いて甲斐から到着し、 8月29日海津城に入る。 それから約半月、 両軍は動くことなく相対峙する。
 そして、 9月9日、 海津城の武田軍は2万の兵を2つに分かち、 1万2千の別働隊が夜陰に乗じて、 妻女山の上杉軍を攻撃し、 驚いて山を下って来る所を、 残りの本隊8千が待ち伏せして殲滅しようとする 「キツツキ戦法」 を仕掛ける。

 その 夕刻、 海津城から何時になく多くの炊煙が立ち上っていることを、 妻女山から望見した上杉謙信は、武田軍の夜襲を察知する。 彼の全軍は一切の物音も立てず山を下り、 千曲川を雨宮の渡しで渡河して八幡原に布陣する。 頼山陽の漢詩 「川中島」 の冒頭 「鞭声粛々夜河を渡る」 の場面である。 晴れてきた朝霧の中から突如として現れた上杉軍に驚愕した武田軍は、 鶴翼の陣形をもって迎え撃つ。 これに対して、 上杉軍は車懸の陣と呼ぶ波状攻撃を仕掛けてゆく。
 数に劣る武田軍は、 信玄の弟信繁をはじめ、 多くの将士が討たれてゆく。 この乱戦の中、 上杉謙信は自ら放生月毛の馬に跨り、 小豆長光の太刀を振りかざして、 信玄の本陣に斬り込む。 頼山陽の詩の中の 「流星光底長蛇を逸す」 の場面である。
 他方、 藻抜けの殻の妻女山に攻め込んだ武田の別働隊1万2千は、 作戦の齟齬を知ると、 今や劣勢の中で苦戦している本隊を救うべく、 八幡原に急ぎ駈け下る。 山を下るであろう武田軍を防ぐために謙信が千曲川畔に配置した1千の隊を、 忽ちに蹴散らす。 ちょうど正午頃である。 こうなると挟み討ちを受ける形になった上杉軍は、 逆に守勢にまわって敗走を余儀なくされ、 兵を引いて北へ引きあげる。
 この戦いによる戦死者、 上杉軍3000、 武田軍4000。 午前中は上杉軍の勝ち、 午後は武田軍の勝ちとなって勝負のつかぬままに終わった。

 戦史 に残るこの激戦は、 海津城の炊煙から始まっている。 常より多い炊煙によって、 謙信が武田のキツツキ戦法を察知したと云うが、 本当にそうだろうか。 余りにも良く出来過ぎている。 それは後世の軍学者や講談師たちの扇子が叩きだした創作ではないだろうか。
 概して 「情報と云うものは、見逃すに易く、見破るに難しい
鞭声粛々と馬に枚 (ばい) を噛まして山を下る上杉軍の動きを、 武田軍が見逃してしまうことは、 ありそうなことである。 しかし、 逆に、 炊煙の数から、 今夜の夜討ちを察知すると云うことは神業であり、 源義家が雁の群の乱れから伏兵を察知したなどと云う話よりも、 数百倍も困難である。 そんなことは有り得ないのではなかろうか。
 私は、 海津城の内外に溢れた武田軍の中には、 当然、 上杉軍の間諜 (忍者) が潜んでいて、 彼らの急報によるものと考えたい。 ちなみに、 上杉謙信は、 配下にある忍者たちを 「軒猿」 と呼んだと云われている。



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