戻る 宮古島の五人の男たち (情報伝達)


 明治38年 (1905年) ロシアのバルチック艦隊は極東に向かい、 ウラジオストックを目指していた。 前年10月バルト海のリバウ軍港を出港し、 18,000海里に及ぶ遠征であった。 日本海軍は日本海の制海権を確保するために、 これを捕捉し迎撃すべく多数の哨戒艦を配置していたが、 5月27日、 東シナ海にいた信濃丸から 「敵艦見ゆ」 との電信が発せられ、 これを受けて、 日本の連合艦隊は出動した。 そして、 27日28日の海戦で大勝し、 ロシア艦隊38隻中、 目的のウラジオストックに入ることが出来たのは僅かに4隻のみと云う壊滅的打撃を与えることが出来た。

 ところが、 「敵艦見ゆ」 と云う電信は信濃丸からの他にもう1通、 発せられていた。 沖縄列島の南端に近い石垣島の郵便局から、 宮古島の島司の名で発信されたものである。 ただし、 その通報は信濃丸からの連絡よりも遅い着信で、 もはや何の役にも立たぬものであったが、 その発信に当たっては、 宮古島の5人の男たちの決死の行動があったと伝えられている。

宮古島地図  5月22日 (あるいは23日) 宮古島の南方で操業していた沖縄本島那覇の漁師 (奥浜牛) が、 宮古島と沖縄本島の間の海域を北上するロシア艦隊に遭遇する。 彼は独特な長髪をしており、 しかも船には龍の絵の大漁旗を掲げていたので、 ロシア人たちは彼を中国人と判断して捕らえなかった。 彼は26日、 宮古島の漲水港 (現在の平良港) に入ると、 このことを島の警察官に告げ、 一緒に役場に駆け込んだ。 宮古島の役場では大騒ぎになったが、 この島には無線がなかったので、 無線がある石垣島まで船で通報の使いを出すことになり、 屈強な青年5人が集められた。 (松原村の垣花善・垣花清・与那覇松・与那覇蒲と久貝原村の与那覇蒲) 5人は大泊の浜から170キロの海をサバニ (杉板を貼り合わせた細長い全長9m程の船足の速い手漕ぎの船) を漕いで15時間の後に、 石垣島の東海岸に至り、 そこから30キロの山道を5時間で駈けて八重山郵便局に至った。 宮古島島司 (橋口軍六) からの電文は那覇の郵便本局を経て沖縄県庁より大本営軍令部へ送られた。 しかし、 その時はすでに、 信濃丸からの通報の後であり、 彼らの努力は特には何の役にも立たなかった。
 この遅れ時間は、 資料によって大きく異なっていて、 信濃丸より1時間遅れとするもの、 あるいは4時間遅れとするもの、 更には、 既に海戦がほぼ終わった28日になってからともする。 いずれにしても、 「後の祭り」 の甚だしいものであったことは間違いない。

宮古島地図  そんなこともあって、 この話は以後忘れられてしまっていたが、 昭和の戦時体制下に入ると、 発掘されて教科書にまで掲載され、 戦意高揚・国民総動員の材料とされ、 沖縄では郷土の英雄として久松五勇士と呼ばれて顕彰され、 宮古島にはモニュメントも作られた。 しかし戦後は再び忘れられてしまった。 私も、 先島諸島を旅した時にガイドの話で初めて知った。

 この話は、 マラトンの野からアテネまで駈けたギリシャの兵士の話や、 江戸から赤穂まで早籠で急いだ赤穂浪士の話を思い出させる。 情報伝達手段が未発達の時代、 情話は人が命がけで運ぶ以外になかったと云う話である。
 しかし、 ギリシャの兵士も赤穂浪士も、 それによって目的を達成できたのだから、 もって瞑することが出来る。 まだ救いがある。 それに反してこの場合、 命を賭けて運んだ情報が、 まるで石ころか塵埃のように何の役にも立たぬものであった。 何という無意味な努力、 何と云う無惨さ。 ギリシャ神話の中のシジフォス (シシュフォス) の大石、 タンタロスの葡萄の説話のように、 無意味なことに懸命になるのが人間かも知れないけれど、 それにしても何という虚しさ。

 それとともに思うことは、 情報と云うものは、 僅かに時を失っただけでも容易に陳腐化すると云うこと。 そして陳腐化した情報は、 もはやないに等しいと云うことである。
 更に思うことは、 情報はその時の都合によって操作されると云うこと。 この久松五勇士の話も、 忘れ去られ、 時によって引っ張り出され、 また時過ぎれば忘れられ捨て去られてゆくのであった。



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