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		マラソンの名の由来(情報伝達) | 
		 紀元前490年、ペルシャのダリウス1世(在位 BC 522〜486)はギリシャを侵攻するべく、
		数万の大軍をアテネに近いマラトンの野に上陸させる。
		アテネは約一万の重装歩兵をもってこれを迎え討つ。大激戦の後、アテネはペルシャ軍を撃ち破る。
		この時、フェイディビデスという名の兵士が、こり勝利の知らせをアテネの町まで伝える伝令の役を命じられる。
		彼は、約三十六キロの道のりをひたすらに駆け、アテネの町まで帰り着き、
		一言「わが軍勝てり」と叫ぶと、そのまま倒れて息絶えた。
		
		 この話は、ローマ時代のブルターク英雄伝などには見られるものの、ギリシャ時代の史書には見えないので、
		実話でなく創作ではないかとも云われているが、ここでは、その詮索は必要ない。
		要は、当時は、情報を伝達するには人間が移動する以外に手段がなかったと云うこと、
		すなわち、情報媒体は人間しかなかったと云うことの、象徴的な例であることを見れば足りるからである。
		
		
		
		 近代オリンピックが、クーベルタンの提唱によって開かれることになり、
		1896年第1回大会がアテネで開催されることになった時、フランスのブレアルが、
		故事にちなんで、マラトンからアテネのオリンピック競技場までの長距離レースを加えることを提案した。
		そしてこの時、マラソンレースと云う名称が出来上がった。
		以後、マラソンレースは、オリンピックの陸上競技の最終日を飾る花形競技となった。
		
		 ちなみに、初めの頃は、走る距離に正式の決まりはなく、約四十キロの距離が走られたが、
		1924年の第8回大会の時から、今日のように、42.195キロと定められた。
		これは、1908年にロンドンで行われた第4回大会の際の距離を採用することにしたものである。
		ロンドン大会で 42.195キロが走られたことについては、一つの逸話がある。
		すなわち、このロンドン大会も、最初は約四十キロで計画されていたが、
		英国の王女がマラソンレースのスタートをどうしても見たいと言い出したので、
		王女が住んでいるウィンザー城の庭の芝生の所からスタートし、ホワイトシティーの競技場まで走ることにしたので、
		距離が延長され、42.195キロと云う半端な距離になったものである。
		
		 更に、このロンドン大会のマラソンレースには、もう一つの物語が加えられる。
		このマラソンで、イタリアの選手ドランドは、先頭を切って競技場に第一着で帰ってくる。
		しかし、ゴール寸前でばったりと倒れてしまう。役員たちが駆け寄って助け起こし、それに助けられてゴールする。
		観衆は、あのアテネの兵士の故事を思い浮かべて万雷の拍手を送る。
		しかし、人の助力を受けることは反則であり、彼は失格となる。
		人々は「ドランドの悲劇」と呼んだ。
		しかし、イギリスのアレキサンドラ皇后が、彼を讃えて自ら彼に金杯を贈ったと云うものである。