戻る 秀衡の情報ルート(情報伝達)

クリックすると原画が表示されます (105KB)  岐阜県郡上郡白鳥町の上在所に白山中居神社があり、 ここに奥州平泉の藤原秀衡が白山の神に寄進した阿弥陀如来座像がある。 秀衡はこの仏像を上村十二人衆と呼ばれる人たちに運ばせたが、 彼らはその後も長くこの地に住んで、この仏を守ったと伝えられる。

 これは、秀衡が京都から平泉の間に設けた秘密の情報ルートの中継点の一つであったと想定されている。

 この情報ルートの京都側の端末、あるいは情報の収集担当者が「吉次」であったとも想定されている。 吉次は源義経の奥州下向を手助けしたことで有名であり、奥州の金売り商人と云われ、「金売り吉次」と呼ばれているが、 それは彼の表の姿でしかない。 角田文衛氏は、吉次(平家物語では橘次)の本当の名前は橘次郎末春であると云う。 京都には平泉の出先機関として平泉第が設けられており、首出八幡宮がその跡と云う。 吉次はこの平泉第の責任者と考えられるのである。

 電気通信のない時代、情報は人が運ばねばならなかった。 人が運ぶためには、そこに道が必要であり、道には駅、すなわち、休憩し宿を取り食料などを補給する中継点が必要である。 このため、古く大和朝廷の頃から、山陽道、東海道、南海道などの街道が整備され、約三十里ごとに駅が設けられた。 しかし、奥州藤原氏ともなると、こうした官道を用いるだけでは行動が制約されるので、 こうした秘密ルートを自前で作っていたものと思われるのである。


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(参考文献) 角田文衛「金売吉次、奥州藤原氏の政商か」「歴史と人物」1984年11月号