戻る 日比谷焼討ち事件 (情報の非対称性)


明治38年 (1905) 日露戦争の奉天会戦。 ロシア軍の総司令官クロパトキンは、 戦線を奉天 (瀋陽) より更に北の鉄嶺の線まで後退させることにして、 3月9日より諸軍に撤退を命じた。 しかし、 この好機にもかかわらず、 日本軍にはもはや追撃する余力はなかった。 砲弾も尽き、 兵員も損耗していた。 もし、 ロシア軍が反撃に転じたならば、 支える余力は全くなかった。 満州軍参謀長の児玉源太郎は、 ロシアとの講和を政府要路に促すために、 急いで帰国した。 当時、 日本は戦費も29億に達して、 遂に尽き果て、 戦争継続は全く不可能な状態であった。
 その頃、 バルチック艦隊は遠く東洋へ回航しており、 これが日本近海まで来て制海権を握れば、 大陸にいる日本陸軍は補給路を失って自滅するはずであった。 ロシアは総司令官をリネウィッチに替え、 ハルピンに大軍を集結させて、 バルチック艦隊を待っていた。 5月27日、 日本海軍はそれを完全に撃破する。 しかし、 ロシアはシベリア鉄道によって兵員を満州に送り続け、 最後の決戦への準備を進めた。
ポーツマスの旗  ここにおいて、 米国大統領セオドア・ルーズペルトの仲介の下に、 米国のポーツマスで日露の講和会議が行われ、 8月29日、 講和条約であるポーツマス条約が締結された。 日本側の全権大使は外務大臣小村寿太郎であった。 この条約において、 南樺太の割譲と遼東半島租借権の譲渡は勝ち取ったが、 賠償金の支払いについてはロシアは断固として拒否し、 会談は決裂寸前に至った。 小村は涙を飲んで妥結せざるを得なかった。

 果たせるかな、 日本国内の世論は憤激した。 実情を全く知らない国民は、 ロシアから多額の賠償金を得られるものと信じていた。 勃然として、 講和条約破棄・戦争継続を唱える集会が全国各地で開かれた。 新聞は 「講和会議は主客転倒」 (朝日新聞) 「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」 (報知新聞) 「弔旗をもって小村を迎えよ」 (万朝報)とまで書き立てた。 新橋駅に着いた小村を首相桂太郎と海相山本権兵衛は左右両脇から守って歩いた。 小村が狙撃された場合、 我々が楯になるとの覚悟であった。

 遂に9月5日、 東京日比谷公園で開かれた全国集会では、 3万の群衆が公園に突入し、 それを阻止しようとする警察官数千との間で乱闘となり、 警察署2、 交番209、 教会13、 民家53、 電車15、 内務大臣官邸、 国民新聞社、 なども焼き討ちされ、 死者17、 負傷者500以上を出す無政府状態になり、 遂に翌6日には厳戒令が敷かれた。

 この事件は、 官民の間にあった情報格差、 いや情報断絶によるものである。 政府の方は、 もはや戦争継続など思いも寄らぬ状況であったのに、 国民の方は、 大勝利大勝利の言葉に浮かされて、 賠償金が取れぬならば戦争を継続せよと激情的に叫ぶ。 その意識の格差、 いや断絶。 情報の非対称性と云う言葉があるが、 そんな甘っちょろいものを遙かに越えていた。

 総じて、 講和条約と云うものは常にこのような事態に陥る。 交渉する者は常に弱腰と云われ、 軟弱外交と罵られる。 さりとて、 もう息絶え絶えの内情を、 予め国内に情報公開するなど考えられない。 そんなことをすれば、 敵からは足元を見られて屈服を強いられ、 国民は意気消沈して戦意を喪失する。 そこで、 表面的にはあくまで大勝利を叫ばねばならぬ。 ここでは、 情報は断じて公開されてはならず、 絶対に秘匿されねばならない。 しかし、 和平交渉になった時、 この矛盾が露呈してカタストロフィーが起こる。 それを恐れて、 講和交渉をずるずると避ければ、 そこにあるものは、 完膚なきまでの破滅であり滅亡である。 太平洋戦争の結末がそれであった。 日露戦争では、 当時の指導者たちはカタストロフィーの中に敢然と身を晒したのだった。

 戦争と云うものは多かれ少なかれ、 所詮、 言論統制、 情報秘匿の下で行わざるを得ない。 戦争だけではない。 国家間に止まらず、 団体間・企業間、 さらには個人間においても、 情報を秘匿しなければならない事態は多い。 しかし、 情報秘匿が何らかの時点で破れた時、 そこには、 しばしば破壊的な衝撃波が発生する。
 「秘すれば花」 (世阿弥 「風姿花伝」) などと呑気な事ではない。



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