戻る 藤戸:情報と死神 (情報秘匿)

 平家物語の第十巻、藤戸合戦の段。

 時は寿永3年(1189年)一の谷の戦いで敗れた平家は、四国は讃岐の屋島に本拠地を移した。 9月、三河守源範頼は3万騎の騎馬軍団を率いて西国に発向する。 他方、屋島の平家は、新三位中将資盛に500艘の兵船を率いさせて、瀬戸内の対岸の児島に軍を送る。 児島は今では陸続きの半島になってしまっているが、当時は独立した島で、 本土のと間は幅約5町(500m)ばかりの水路によって隔てられ分離していた。 その水路が藤戸。

 範頼の軍は水路を隔てた西川尻に到着して陣を敷いたが、船がないので、児島に拠る平家軍を攻めることができない。 それを見て平家は、小舟を出しては源氏の兵たちをからかって挑発するが、 源氏の方ではどうすることも出来ず歯がみするばかりだった。

 ここに、源氏の軍の中に佐々木三郎盛綱cと云う者がいた。 彼は地元の漁師の若い男に、馬でも島へ渡れるような浅瀬はないかと訊ねる。 男は盛綱に浅瀬を教え、更に夜闇に紛れて盛綱と二人で裸になって浅瀬を渡ってみる。 しかし、その帰途、盛綱は物も云わず男を刺し殺し首まで掻き切ってしまう。

 このような男はどちらに着くか分かったものではない。 浅瀬を通って攻め込もうとすることを平家方に喋らないとも限らないと云う思いと、 もう一つには、味方の者に同じように浅瀬を教えたのでは、 自分が一番槍の功名を手にすることは出来ないとの思いによるものである。 とは云え、残酷。

佐々木三郎盛綱  翌朝、平家方は、今日も小舟を出して源氏の兵をからかい始めた。 佐々木盛綱は家の子郎党七騎と共に、昨夜漁師の男から聞いた浅瀬に馬を乗り入れる。 総大将の範頼は 「あいつ気が狂ったか」 と、土肥次郎実平を走らせ、おし止めようとするが、 実平も盛綱の後に従って海を渡る様子。 それを見て、 「さては浅瀬があったのか」 と三万余騎が後に続き、忽ち、源平入り乱れての激戦となるが、 夕刻に至ると島は完全に源氏の兵馬で制圧され、平家は船で屋島へ逃げ帰る。

 かくて盛綱は 「川を馬で渡って一番乗りをする話は多いが、海を馬で渡って一番槍した話は古今東西前代未聞、 希代の例(ためし)」 と頼朝に激賞され、備前の児島を所領として賜った。

 この平家物語の後日談を世阿弥は謡曲 「藤戸」 として創作する。

 平家が滅び世が治まった後、佐々木盛綱が所領として賜った児島に赴くと、一人の老婆が現れて盛綱に恨み言を云う。 それは盛綱に罪なくて殺された漁師の若者の母親である。 やがて、海上に殺された若者の怨霊も出現する。 しかし、盛綱が懇ろな弔いの法要を行うと亡霊は成仏してゆく、と云うものである。



 私は、罪もない漁師の若者を、恩を仇で返すように殺してしまう盛綱の行為を、 残酷とか無惨とか呼んで非難しようと思ってのみ、この話を書いたのではない。 それを、情報と云うものの恐ろしさ、魔性の例として書いたのである。 「時に、情報は死神である」 と云いたかったためである。

 他人が秘密にしたい情報を知ってしまうと云うことは、死神に取り付かれたのと同じである。

 この種の話は数限りなくある。 城の秘密の抜け穴が出来上がると、穴を掘らされた人夫は皆殺されたとか、 たまたま殺人の現場を目撃したために、口封じに殺されたとか。 そして、現在でも、泥棒が顔を見られたと云うだけで家人を殺すニュースが絶えない。



 私は今、藤戸から程近い備中高松での別の話を思い出している。

 天正十年(1582年)、羽柴秀吉は毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めしていた。 その時、本能寺で主君織田信長が明智光秀に殺されたと云う秘報が入る。 彼は、その情報が毛利方にも知られぬようにするために、直ちに総ての街道を兵で固め、 東から西へ向かう旅人を悉く殺したと云う話である。

 殺される旅人には何の罪もない。 ただ、信長が死んだと云う情報を知っているかも知れないために過ぎない。 ああ、情報は死神。


(2002年11月)


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