戻る エニグマも破られていた (暗号)

 第二次大戦でドイツが用いていた暗号機は 「エニグマ」 と名付けられていた。 その名は英国の作曲家エドワード・エルガーの変奏曲36番 「Enigma」 から取られたものと云う。 「Enigma」 は 「謎」 という意味である。 これは、一時は、難攻不落の暗号とまで云われていたものであったが、 イギリスはこの暗号の解読にも成功していた。

 英国はロンドン郊外のブレッチェリーパークに要員を集め、ここで解読に当たらせた。 この時、革命的とも云われる手法を導入して、エニグマ暗号への突破口を開いたのがチューリングである。 このチューリングは後に、自ら青酸カリを塗ったリンゴをかじって自殺する。 天才と狂気とは紙一重の隣り合わせであろうか。それにしても、このようにしてエニグマは破られていた。

 1942年、エジプトの砂漠の中で独伊軍と英米軍の戦車隊が激突したエルアラメインの戦いに敗れた ドイツのロンメル将軍率いるアフリカ軍団に、食料・弾薬を補給するための輸送船団が、 イタリヤの港から北アフリカの港を目指した時、英国側は、 ロンメルと本国との間で交わされる無線通信を傍受してその暗号を解読し、 その船団のコース・到着日時・到着場所を知り尽くしていた。 そして、英国は準備万端を整えて、攻撃艦艇をコース上に出動させ、船団を撃沈してしまう。

 この時の暗号解読には一つのエピソードがある。 英国としては、自分たちがエニグマを解読していることをドイツには絶対に知られたくなかった。 万一知られたら、ドイツは直ちにエニグマを改良するだろう。 そうなると、その新しい暗号を解読する手法をまた最初から出直して考えねばならないが、 それには多くの時間がかかり、解読出来ない空白期間が出来るからである。 このため、偵察機が偶然に船団を発見したかのように装おうことにした。 しかし、折からの濃霧のため偵察機の到着が遅れてしまい、偵察機と攻撃艦艇が同時に現場に到着してしまった。 そこで英国側は、船団の行動予定を暗号解読によってではなく、スパイによって知った形を取り繕うために、 積荷港のナポリの架空の港湾労働者に、功績を讃え報酬を値上げする旨の電報を打った。 当然これはドイツに傍受される。このため、ドイツはエニグマが破られていることを知らないままに終わった。 ドイツにもまた 「我が国の暗号に限って破られるようなことはない」 という思いがあったことも事実である。

 エニグマ解読が挙げた戦果の最大のものは、1943年の対Uボート戦である。 Uボートというのはドイツが誇る高速潜水艦である。 開戦初期、ドイツは多数のUボートを大西洋に出動させ、 米国から英国などへ送られる物資を満載した輸送船団を片端から沈めていった。 ドイツ側の観測所が船団が発する無線を傍受しては、 船団の所在位置を最寄りのUボートに通報するシステムを用いたことも戦果を大きいものにした。 このため、1942年頃には英米側の船腹損失は毎月七十万トンにのぼり、 英国は物資途絶のため降伏寸前にまで追い込まれた。 しかし、1943年になると、逆にUボートが次々と沈められるようになる。 これは、エニグマの解読に成功した英国がUボートの正確な現在位置を割り出し、 これによって輸送船団が進路を急変更したり、 航空機によってUボートを不意に狙い撃ち攻撃することが出来るようになったためであった。 遂に、1943年5月にはドイツは大西洋からすべてのUボートを引き上げ英国は救われた。 この時もドイツはエニグマが破られているとは考えず、 英国のレーダーの性能が良くなったためと考えたのであった。

 英国はエニグマ解読の事実を最後まで秘密にした。 コベントリーの町がドイツ空軍の大編隊の爆撃機によって無差別空襲を受けた時も、 英国の首相のチャーチルは、エニグマ解読による情報によってドイツ空軍の空襲を予め知っていたが、 エニグマ解読の秘密を守るために、敢えて事前の対策を取らず、 コベントリーの町をスケープゴートにしたと云う真偽不明の噂さえ伝えられている程である。 エニグマ解読の事実が公表されたのは、戦後も二十年以上を経た1970年代に入ってからである。


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(参考文献)吉田一彦「暗号戦争」小学館、1998年、