ムカデの旗指物 (情報の不可逆性) |
武田信玄が使った十二人の使番は 「ムカデ」 の旗指物を掲げていた。
使番は伝令役である。 大将が発する命令を前線に散って展開している各部隊に伝える役目で、
彼らが馬を駆って戦場を駆け抜ける時、 それと分かるように小振りな旗を背負っていた。
よく知られているのが、 徳川家康の使番の 「伍」 の字の旗印と、 武田信玄の使番の 「ムカデ」 の絵である。
なぜ、 武田信玄は 「ムカデ」 の印を用いたのか。
ムカデは毘沙門天の使番であるから、 自らを毘沙門天の生まれ変わりと称した上杉謙信ならば分からぬでもないが、
謙信でなく信玄である。
祖先が信玄の使番であったと云うある家で、 「ムカデは進むばかりで、 後ろに退くことがないからである」 と伝えている。
と云う話を読んだことがある。
たしかに 、情報と云うものは一度発信されたなら、 それが元に戻ることはない。
情報発信は不可逆であるからムカデの属性と似ている。
情報を伝達する使番に相応しいと云えよう。
「綸言汗の如し」。 一度口から出た君主の言は、 汗が再び体内に戻らぬように、
取り消すことは出来ないと云う言葉もある。
汗もムカデである。
ちなみに、 武田信玄の使番の一人、 初鹿野伝右衛門昌久は将棋の駒の 「香車」 の絵の旗指物を用いたこともあったと云う。
香車も前に進むばかりで横にも行かず後ろに退くこともない。
ムカデと同じである。
ムカデも汗も香車も情報と同じく不可逆なのである。
およそ不可能であるにもかかわらず、 情報と云うものの属性に逆らって、 うかつに発した一言を消そうとして、
それを耳にした第三者、 目撃者を殺害する悲劇が、 今も後を絶たない。
「行きて帰らぬもの」 の典型は時間である。
清少納言の枕草子の一節。
「ただ過ぎに過ぐるもの、 帆掛けたる舟、 人のよわい、 はるなつあきふゆ」