戻る 「こんにちは」 言わぬ世界  (絆ロス)   (コミュニケーション)


(その1) 元気な女の子
 私の家の近くに、 元気な女の子がいた。 家の前の通りで友達と、 ボールを蹴ったり、 一輪車に乗ったり、 隠れん坊をしたりして、 いつも遊んでいた。 その子は私を見かけると、 いつも 「おじちゃん、 こんにちは」 と大きな声で挨拶していた。 私も 「こんにちは」 と返して 「元気だね」 と声を掛けていた。 私にだけでなく、 近所の誰に対してもそうだった。 その子は幼稚園の年少組だった。 それは小学校へ行くようになっても変わらなかった。 相変わらず大きな声で挨拶していた。
 ところが、 いつの頃からか急に変わった。 道で出会って、 私が微笑みかけても知らぬ顔をするようになった。 誰に対しても。
何があったのだろう。 どうやら、 小学校で 「他人に話しかけられても返事してはいけませんよ。 附いて行ったりなどしてはいけませんよ」 と、 何度も教えられたからのようだった。
 防犯上やむを得ないのかも知れないが、 何と淋しいことだろう。 そして、 子供たちの情操を損ない、 世の中から暖かみを奪い、 社会から連帯感を抹殺するような教育をしなければならぬ現代は、 何と悲しいことだろう。
 あの頃から十年、 あの子も高校生。 通りに子供たちの姿はなくなった。 あの元気な声を聞くことは、 もうなくなった。 家の前は索漠とした通りになった。

(その2) 小さなトンネル
 駅を降りて箕面の滝に至る2キロ程の道は、 渓谷沿いの遊歩道である。 両岸は木々の豊かな緑。 秋は美しい紅葉の道。
 その道の中間近くの落合谷と呼ばれる所に、 小さな煉瓦造りのトンネルがある。 短いトンネルだが、 それを抜けると、 その奥は少し薄暗くて、 まるで異次元の世界の入口のように思われる。
 トンネルの向こうは山の世界。 トンネルのこちらは日常の世界。 このトンネルで2つの世界は明瞭に区切られている。
 山の世界では、 山道でたまにすれ違う人には、 見知らぬ人でも必ずお互いに 「こんにちは」 と声を交わす。 しかし、 山を下ってトンネルを潜って遊歩道に出ると、 一変する。 行き交う人は互いに知らぬ素振りで、 声を交わすどころか目線も避け、 時には相手を睨み付けながら通り過ぎてゆく赤の他人。 それは余りにも鮮やかな対比である。 ある人の川柳 「こんにちは言わぬ世界に下りて来た」
 その対比の中で私は 「やっぱり山はいいなあ」 と思うのである。 交わす 「こんにちは」 の一言の中で、 お互いの心は温まるのである。 それに比べて、 トンネルのこちらの何という索漠か。

(その3) 集団登校
 友人の一人が話していた。 「集団登校と云うものは異様なものですよ」 と。 彼は話していた。
 「近所でも、 小学校の集団登校が実施されているんです。 見ていると、 家々から子供が出てきて、 ぞろぞろと歩きながら、 集団がだんだん大きくなってゆく。 この間、 一言も喋らず、 全く無口で集団が膨れてゆくんです。 子供らしい 「おはよう」 の元気な声など全くない。 不気味な感じさえしますよ。 近隣の大人の人を見かけても、 黙ったまま。 なんと云う集団なのだろうと思いますよ」
 何という索漠。
 「えっ、 本当か?」 私は思わず言い返した。 子供と云うものは、 おしゃべりなもので、 いつも、 がやがやしている。 黙らせるのに苦労するものだと、 私は思っていた。
 「本当なんですよ」 ・・・・・。 私は言葉をなくしてしまった。 そして思った。 “その地区の子供たちは、 学校から帰っても、 近所の子供同士で遊ぶと云うことがないんだ。 みんな塾へ行く。 それも親の自家用車なんかに乗せてもらって、 ――――”。
 重ねて思う。 何と云う索漠。

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 コミュニケーションの失われた世界。 人と人との間に暖かい気持ちの流れることのない世界。 人と人との絆の切断された世界。
 あぁ、 しかし、 現代は情報化社会なんだ。 情報化社会とは大量の情報が高速で行き交う社会であると定義されている。 しかし、 それは、 個々の個人間に暖かで豊かな会話が流れるか否かとは別問題なのだ。 かえって、 情報化社会なるが故に、 個人は個人の殻の中に閉じこもって、 プライバシーなどと称して社会から孤立して、 「孤人」 となる傾向もあるのである。



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