戻る 電子の海 ―― 正孔と陽電子  (半導体)


(1) 正孔 (Hole)
 トランジスターやダイヤードの構成要素であるP型半導体では、 その作用を正孔というものによって説明する。
 これは、 マイナスの電気を持っている電子がギッシリと隙間なく詰まったシリコンの結晶格子の中に生じた電子のない空隙であって、 まるで、 プラスの電子と見なすことが出来るので、 正孔と呼ぶものである。
 これは 「電子の海」 にぽっかりと生まれた泡に喩えられる。 この泡がシリコンの中を移動する。 これについては、 次のような比喩が行われている。

小学校の学芸会や音楽会で、 前の方の席が空くと、 後ろの方にいた人が前に移動する光景をよく見かける。 その後に出来た空席を、 さらに後ろに居た人が埋める。 と云う様子に似ている。 電子はマイナスの電気を持っているので、 プラスの電極に引かれるが、 空席はマイナスの電極の方に動いているので、 あたかも、 空席自身がプラスの電気を持っているかのように見えるのである。 そこでこの空席、 電子のない孔を正孔と呼ぶ。
(上山清二:Webで学ぶ情報処理概論、 p36)

 だから、 正孔と云うのは、 哲学的に云うならば、 「有」 に対する 「無」 ではなく、 「うつろ」 であり、 「から」 である。 「虚々実々」 の 「虚」 であり、 色即是空の 「空」 である。
 しかし、 厳然として存在するものである。 LED (発光ダイオード) は電子が正孔に落ち込んでエネルギーを失う時に発する光を用いるものである。


(2) 反粒子
 ところが、 これと非常によく似た説明が、 素粒子物理学の中において、 反粒子あるいは陽電子を説明する時に用いられている。
 現在の物理学は、 すべての素粒子について、 すべて反素粒子 (反粒子) が存在すると云う。 反粒子は、 質量は同じだが、 荷電などが逆の粒子を云う。 電子に対して反電子 (陽電子)、 陽子に対して反陽子、 中性子に対して反中性子、 ヘリウムに対して反ヘリウム、 と云う具合である。 すべての物質にはそれに対して反物質がある。

 反粒子の存在は、 イギリスのポール・ディラックが、 26才の1928年に、 特殊相対性理論と量子力学を統合した相対論的量子論 (ディラックの方程式) を作った時に、 その方程式の解として理論的に予言した。
 ディラックは、 大きなエネルギーから、 粒子と反粒子がペアーで生まれ (対生成)、 それらが再び出会うと、 大きなエネルギーを発して消滅して、 跡形もなく、 元々の無に帰ってしまう (対消滅) と云うのである。

 当時の科学者たちは誰一人、 そんな説を信じなかった。
 まるで、 人間が生まれる時に、 鏡の向こうの世界でも、 同じ人間の影がもう一人生まれ、 この二人が出会うと、 実体と影が合体して一瞬に消滅すると云う様な話だから、 誰もが疑問に思うのは当然である。 ディラック本人さえも、 その解釈に苦しんだと云う。
 ところが、 4年後の1932年、 アメリカのカール・アンダーソンが2次宇宙線の中で、 偶然に反電子 (陽電子) を発見して、 反粒子が架空のものではない事を示した。
 さらに、 その後、 加速器によって、 その他の反粒子も次々と作られていった。
 そして、 現在では、 医療診断の世界には、 PET (陽電子放射断層撮影) があって、 癌細胞の内部で、 陽電子が対消滅する時に放出されるガンマ線を検出することによって癌細胞の造影が行われている。

 この反粒子を説明するために、 ディラックは次のように考えた。 (上図)
空間はマイナスのエネルギーを持つ電子で埋め尽くされている 「電子の海」 である。 この電子の海から電子1個を取り出すと、 取り出された電子はプラスのエネルギーを持つようになり、 もともと電子が1個あった場所に穴があく。 ・・・この穴はプラスの電気を帯びているように見えるはずであり、 この穴は別の電子によってふさがれない限り存在し続ける。 これが反電子である。 ・・・この現象が対生成である。
(村上斉: 「反物質の謎」 Newton 36巻4号64〜65頁)

負エネルギーが詰まった真空に、 高エネルギーのガンマ線が走ると、 ガンマ線のエネルギーは負エネルギーの電子にエネルギーを与える。 そうすると、 負エネルギーだった電子は正エネルギーの通常電子 (負電荷) となって真空に飛び出す。 すると、 この電子が居た負エネルギーだった場所は、 電子が飛び出すので穴になる。 周りがすべて負エネルギーの空間に穴が出来ると、 そこは、 負電荷が持ち去られた正エネルギーの電子として観測されるはずである。 負電荷が持ち去られたのであるから、 その電子は正電荷である。
(「なにはさておき量子論」 http://www1.odn.ne.jp/~cew99250/html/C_5.html)

 この 「電子の海」 は、 正確を期して 「負のエネルギーの電子の海」 と呼ばれることもある。
 また、 陽電子だけでなく、 あらゆる反粒子がそこから生まれるので 「電子の海」 と云う言葉を避けて、 「ディラックの海」 と呼んだりもする。


(3)瓜二つ (どちらが先か)
 それにしても、 この反粒子の説明は、 P型半導体における正孔の説明と、 瓜二つである。
 P型半導体における電子の海の説明と、 陽電子における電子の海の説明とが、 瓜二つに酷似していると云うことは、 どちらか一方が他方の真似をしたに違いない。 真似と云うと語弊があれば、 ヒントを得たと云ってもよい。 どちらが先に現れて、 どちらが後から現れたのか。
 どうやら、 陽電子の方が先で、 P型半導体の方が後らしい。 ディラックが陽電子を予言したのは1928年。 これに対して、 ショックレーが接合型トランジスターを作ったのは1948年であるから。
 半導体の技術者たちがP型半導体の機能を説明する時に、 ディラックのことを思い浮かべたに違いない。


(4)場の量子論
 思えば、 「ディラックの海」 と云うのは、 昔々の 「エーテル」 に似ている。 19世紀以前の物理学では、 光や電磁波の伝播を説明するために、 空間にはエーテルが充満していると考えた。 しかし、 この考えは否定されて過去のものになり、 「電磁場の理論」 に替わられた。 そしてまた、 半導体の技術者たちが謹んで模倣した 「ディラックの海」 も、 同じ運命をたどったのである。
 ディラックが示した 「電子の海」 と云う概念、 「ディラックの海」 と云う考えは、 現在では死んでしまった。 真空は負のエネルギー電子で埋め尽くされているなんて考えない。 そして、 「場の量子論」 に代わられている。
 この 「場の量子論」 では、 “何故かは問わず”、 真空自身が、 粒子の生成や消滅を繰り返す性質を持っているとする。
 かくて、 「電子の海」 と云う概念は、 P型半導体の世界にのみ残った。 そして今では、 コンピューター世界の中核において、 厳然として存在の光を放っている。


(5)ヒッグス粒子の海 (海再び)
 ところが、 「真空の海を埋め尽くす或る物」 と云う考えは、 容易には死に絶えない。
 アメリカのシェルドン・グラショウは、 空間には 「ヒッグス粒子」 と云うものが、 ギッシリと詰まっていると考えた。 「弱い力を伝えるウィークボソン」 は、 本来は質量を持たないが、 この空間を走ると、 ヒッグス粒子の抵抗を受けて減速し、 それによって質量を持つように見えるのだと云う。 (ナンと云うナンカイ!!)
 これは、 かつての 「エーテル」 のお化けの再来ではないか。 そして、 素粒子物理学は、 ますます、 我々凡人素人の及び得ないものとなって行く。




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