戻る 情報化社会の人間疎外性(情報化社会)

 情報化の進展は、人間社会にコミュニケーションの発達をもたらすものである。 コミュニケーションとは、人間同士が相互に意志を疎通させることであるから、 情報化の進展は、人々に、地理的空間的距離を越えて、相互の一体感を作り出してゆくものであり、 従って、その究極においては、世界全体を親近化し一体化してゆくものと考えるのが一般である。

 しかし、果してそうであろうか。そのように手放しで楽観してもよいのであろうか。

 1995年1月17日の阪神大震災の直後、被災地において、 停電のためにテレビもラジオも視聴することができなくなつた時、 人々は口から口へと、「口コミ」 で情報を伝えていったことが知られている。 その日一日、見ず知らずの人と言葉を交わした回数は百人を超えたと語っていた人もいた。 「この道は倒壊した家でふさがれて通れませんよ」「この先で水が出てますよ」「小学校で炊出しをしてますよ」。 このような会話である。そして、それが非常に役に立ったともいう。

 通りで行き会う人に誰彼となく言葉をかけるなどということは、昨日までは考えられなかったことだった。 しかし、みんな、言葉をかけずにはいられぬ気持ちになっていたという。 そこには、お互いに親近感があり一体感があり連帯感があったという。

Face to Face  このことは何を意味するのか。 このような 「口コミ」、それは情報交換の最も原始的形態である。 近代的な情報手段がすべて途絶した時、最も原始的な形態がよみがえったのである。 そして、そのような 「Face to Face」 の原始的情報交換形式の中に、 人々はお互いに親近感と一体感を抱きあったということは、一体何を意味するのか。

 それは、情報化の進展が、社会を、そして世界を一体化してゆくという公式的楽観論に対する反論ではあるまいか。 むしろ、情報化の遅れた社会の中に、 かえって、一体感連帯感が存在するということを示そうとしているのではあるまいか。

 もとより、震災直後の被災地で、このような連帯感が人々の間に突如として生起した原因については、 共通被害者としての仲間意識によるものと見ることもできる。 また、極めて非日常的事態であったため非日常的行動をしたのだという解釈もできる。

 たしかに、そうした要因も否定できない。 しかし、コミュニケーションの最高の手段はスキンシップであると云う言葉が示すように、 人は、互いに接触することによって親近感を抱きあう。 このために、人は人と会話し、握手し、共に食事をし、共に酒を汲む。 「口コミ」 以外の他の情報手段がすべて断絶して、好むと好まざるにかかわらず、 人と会話せざるを得なかったことが、お互いの親近感を被災地に作り出したのではあるまいか。

 振り返って見る時、他方、我々の日常世界、すなわち、情報手段が溢れかえる程の情報化社会の中では、 人は人と会話することなく情報を得て、それぞれに生活することができる。 テレビもある。ラジオもある。新聞もある。世間の動きを知るために人と接触する必要はない。 何かを学習しようと思えば、図書館もある。ビデオもある。放送大学や通信教育もある。 先生の門下に参じ声咳に接して教えを乞うことを要しない。 地域生活の情報を得ようと思えば、ミニコミ誌もある。タウンページもある。テレホンサービスもある。 市役所からは「お知らせ」も来る。近所の人と顔を合わせる必要はない。 かつてのように、好まざるにかかわらず、生きるために人と接触する必要はない。 「人間嫌い」 であるならば、孤独な貝のように存在することもできる。 しかし、そこにはもう、人と人との間の暖かい心のつながりはない。 情報化社会は、このような孤独を可能にする。 すなわち、情報化社会は必ずしも人を一体化し親近化し連帯化するとは言えない。 むしろ、その逆をも可能にするものである。

 今日もまた、孤独な老人の死が報ぜられていた。 一人暮しのアパートの一室で、その老女は誰に看取られることもなく死んでいた。 その孤独もまた情報化社会の一面である。


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