戻る スパイたちの日露戦争: 明石工作 (情報操作)


 スパイのことを 「間諜」 と云うが、 「喋」 が敵の情報を探索することであり、 「間」 は敵中に潜入して破壊活動をすることで、 暗殺・放火などから始まり、 敵の内部分裂を仕掛けるものにまで及ぶ。
 日露戦争の時、 日本は敵国ロシアに対して壮大な 「間」 を仕掛けた。 その困難な役を担ったのが、 ロシアの首都サンクトペトロブルグの日本公使館駐在武官だった明石元二郎陸軍大佐である。 開戦にともなってスウェーデンのストックホルムに拠点を移し、 ロシア革命の運動家に資金を供給し、 革命の火に油を注ぎ、 帝政ロシア崩壊の導火線を仕組み、 彼に戦争継続を困難ならしめ、 米国の大統領ルーズベルトが斡旋する日露講和会議の席に着かざるを得ざらしめた。
 後にドイツ皇帝ウイルヘルム2世は 「明石一人で、 大山満州軍20万に匹敵する戦果を上げた」 と激賞し、 ウォーナーの 「日露戦争全史」 は 「東郷や大山はロシアの艦隊や地上軍を撃破したが、 明石はロシアの心臓部に直接攻撃を加えた」 と記している。

 彼の行動は、 ロシア国内の情報収集から始まり、 シべリア鉄道爆破を経て、 革命分子のテロ活動支援へと進む。 彼は参謀本部より渡された100万円 (現在価値で400億円とも2000億円とも云う) を工作資金として、 ロシア国内においてストライキ・サボタージュ・武装蜂起などを起こさせて、 政情不穏を醸成し、 内部から揺さぶって厭戦気分の増大を図った。
 彼はフインランド革命党のジリァックスの協力を得て、 ロシアの侵略を受けている周辺諸国の反乱分子を糾合して大同団結させるべくパリで会議を開かせ、 更には、 ロシア国内の革命政党である社会革命党 (SR) に資金を供給し、 イエノフ・アゼーフ率いるその戦闘部隊に事件を引き起こさせる。
 日露戦争中の1904年から1905年の間に起きた諸事件、 すなわち、 内務大臣プレーヴェの暗殺事件、 セルゲイ公暗殺事件、 血の日曜日事件、 戦艦ポチョムキン反乱事件などの背後には、 彼の工作資金が動いていたと云う。
 そして遂には、 大衆による武装蜂起を展開させるべく、 24,500丁の小銃と420万発の弾薬をスイスで調達してオランダのロッテルダムへ運び、 そこから用意しておいた船で黒海方面とバルト海方面へ運びこむ。 バルト海方面に送った16,000丁のうちの約半分 (8,400丁) は船の座礁によって没収されてしまうが、 残りは革命分子の手に渡っている。

 日露戦争は明治日本がギリギリの瀬戸際で打った大博打だったと云う。 国家予算のすべてを注ぎ込み、 兵力を根こそぎ動員して、 国をあげて総力を投入した戦争だった。 そこでは考え得るあらゆる手が打たれた。 その中において陸軍参謀本部は、 ロシアを後方攪乱し、 その心臓に刃を突き立てる謀略工作をも仕掛けたのであった。
 その任務を見事に遂行した明石元二郎もさることながら、 それを企画した参謀本部 (実質的には満州軍総参謀長児玉源太郎と云われる) の凄さを思わずにはいられない。

<主な参考文献> 水木楊 「動乱はわが掌中にあり」



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