[蒼街から]



[夜景]


○ |

http://www.infonet.co.jp/apt/March/BlueCity/NightView.html



 5月のある暖かい夜のことだ。
 バスを降りる。静かな街灯の光の下で、電話ボックスが入って来いと話しかける。
 ブルーの受話器は乾きかけた誰かの冷たい汗でじとじと濡れている。

 森島の住まいは初夏の香りの夜景のきれいな都市だ。美しすぎて生臭いぐらいだ。目をしっかり見開いていても夢の中のように薄暗くしか見えない。耳をそばだてても耳鳴りのほかは何も聞こえない。

 都市に月経が巡ってきたらしい。街は蒼く染まり、びくとも動かない空気をかきわけて、血の匂いが届く。

 下宿屋の裏木戸はいつも開いているし、玄関の鍵は掛かっていたことがない。入ってすぐそばに木の階段がある。上っていく時はいつも、とんとんとん、と軽い音がする。

 森島のへやには散文的な要素がそこここに散らばっている。森島は、こりこりこり、と豆を粉き始める。豆ではなくて、何か別のものを粉いているような音がして気持ちがいい。

 長い話。

 下宿屋の廊下は明りが消えている。表の街灯の明りに照らされて橙色に染まって薄暗い。明りのスイッチが見つからない。スイッチを探しながらふと夢のことを考える。夢の中はどこも薄闇だ。この薄闇だって、どこかに引き戸があって、それを開ければ外の光がまるで雨のあとの春風みたいに流れこんでくるんだ。
 でも、引き戸の代わりにスイッチが見つかる。

 外で水が流れる音がする。窓の外は暗い。空気がぬるい。向かいの公園まで出てみようと誘われるままに、森島のあとについてへやを出る。

 公園には誰もいない。敷地の中央に街灯がぽつんと立っていて、明りが砂場を照らしている。そのまん中を歩いて通り抜けると、小さなコンクリートの橋がある。それを渡るといつの間にか病院の裏の敷地に入り込んでいる。

 敷地には木が繁って鬱蒼としている。若葉が光っている。その向こうに何かが白く光って人魂みたいだ。森を抜けて近寄ってみると、それはあじさいの花だった。小さな庭に、あじさいがまるで野性の勢いで生えている。庭の周りは建物だ。その一つは小さな平屋で、屋根になぜか煙突が立っている。近寄ってみると、今はもう使われてないらしく、扉が開きかけている。そっと押し開けて中に入る。
 入ってすぐは小さなホールになっている。窓のガラスが割れている。左手には小さな台所がある。煙突はこの台所のためのものらしい。
 廊下が見える。奥に入って行くとそれは意外に短くて、突き当たりは祭壇になっている。高杯が転がっている。じーん、と耳鳴りがする。
 森島はもう飽きてしまって廊下を戻って行くらしい。祭壇を見つめたまま、なぜか気持ちがいい。でも、いつまでもここにいることはできない。気持ちだけで結論を出そうとしているのは、眠くて頭が働かなくなっているからだ。

 どこかで子どもが泣いたような気がした。

 やはり振り返って廊下を玄関へ向かう。
 夜景の時間は終わろうとしている。森島のへやに帰って少しだけ眠ろう。そして目が醒めたら街に行こう。
 眠ろう。再び夜景の時間が戻るまで。


(78-04のノートより)


○ |


Copyleft(C) 1996-98, by Studio-ID(ISIHARA WATARU). All rights reserved.

最新更新
98-12-28