学習書●[情報処理]

演習
祝詞
報告

沼沢飛郁
(00年度履修生)

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 四月と七月に行われる広瀬大忌祭は豊作を祈願する祭です。よって穀物を司る神に祈りを捧げるのですが、それは次のように始まります。
 廣瀬の川合に称へ辞へ奉る皇神の御名を白さく、御膳持たする若宇加賣命と御名は 白して、此の皇神の御前に称へ辞へ奉らく、皇御孫命の宇豆の幣帛を捧げ持たしめ て、王、臣等を使ひとして称へ辞へ奉らく、神主祝部等、諸々聞食せと宣ふ。
 まずは祈りを捧げる神の名を呼びます。しかし報告例にもあったように、神道における神は恐ろしいものですから、大変丁重に呼びかけるのです。「称辞奉」という言葉はこの後も何度も繰り返されます。またこの祝詞は王や臣が神の御前で神主等に話すという形をとっています。報告例(田淵)ではこれは「神にプレッシャーをかけるため」と解釈していました。もちろんそれもあるでしょう。しかし神に直接語り掛けないことは神への敬意を示しているのではないでしょうか。卑小な人間が直接神に語りかけるとはとても恐れ多いことだったのでしょう。そこで神に仕える神主等に話を持ち掛けます。そういうポーズをとることで神を持ち上げているのです。祝詞の大部分が神へ呼びかける言葉になるのは凄まじいまでの敬語表現が使われているためではないでしょうか。
 奉る宇豆の幣帛は、御服、明妙、照妙、和妙、荒妙、五色物、御酒は、瓶のへ高しり、瓶の腹満てならべて、和稲、荒稲に。
 山に住む物は、毛の和き物、毛の荒き物。
 大野原に生ふる物は、甘菜、辛菜。
 青海原に生ふる物は、鰭の廣き物、鰭の狭き物 奥津藻菜、邊津藻菜に至るまで、置き足らはして奉らくと、皇神の前に白し賜へと宣ふ。
 ここには神に呼びかけるために捧げる供物が述べられています。これも神に直接述べているわけではありません。「申し上げて下さい」と最後におまけの言葉がついてくるのです。ここにきて神を呼ぶための言葉は終了します。広瀬大忌祭の祝詞の三分の一を占めています。次に願いの言葉が入ります。
 如此奉る宇豆の幣帛を、安幣帛の足らし幣帛と、皇神の御心にも平らけく安らけく 聞食して、皇御孫命の長御膳の遠御膳と赤丹の穂に聞食さむ御刀代を始めて、親王 等、王、臣等、天下の公民の取り作る奥つ御歳は、手肱に水沫書き垂り、向股に泥 書き寄せて取り作らむ奥つ御歳を、八束穂に皇神の成し幸賜はば、初穂は汁にも、千稲、八千稲に引き居えて横山の如く打ち積み置きて、秋祭りに奉らむと、皇神の 前に白し賜へと宣ふ。
 皆が苦労して作る稲を豊かに実らせてください。もし願いを叶えてくだされば、秋の祭でたくさんの稲を供物に捧げます。全体の三分の一以下にすぎないこの五行ががこの祝詞の本旨です。これを述べるために言葉が前後に尽くされているのです。
 倭国の六御縣の山口に坐す皇神等の前にも、皇御孫命の宇豆の幣帛を、明妙、照妙 和妙、荒妙、五色物、楯矛に至るまで奉る。如此奉らば、皇神等の敷坐します山の 口より、狭久那多利に下し賜ふ水を、甘水と受けて、天下の公民の取り作れる奥つ御歳を、悪しき風荒き水に相わせ賜はず、汝命の成し幸はへ賜はば、初穂は汁にも 瓶のへ高しり、瓶の腹満てならべて、横山の如く打ち積み置きて奉らむと、王臣等 百官人等、倭国の六御縣の刀禰、男女に至るまで、今年某月某日、諸々参出来て、 皇神の前に宇事物頚根築抜て、朝日の豊栄登に称へ辞へ奉らく、神主祝部等諸々聞 食せと宣ふ。
 残りの三分の一が神との交信を終わらせるための手続きになります。この祝詞では、最後に全体をまとめることで交信を終了させようとしています。願い事を述べ、しかし言いっぱなしで終了してしまっては神に対して失礼にあたります。そこで前の言葉の繰り返しであるにもかかわらず、わざわざもう一度内容の確認をしているのです。
 祝詞には神への敬意があふれています。人間が人間に願い事をする時のように簡単な言葉ではすみません。神との交信に要する長い手続きは、神に対する敬意の表れなのです。



このページの記事は、科目[情報処理]を履修した学生が課題[祝詞]の学習の一環として作成した著作物です

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