学習書●[情報処理]

演習
のりと
報告

田淵千鶴
(00-12-19)

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 祝詞はその言葉の大部分が神への語り掛けによって占められています。前半部分は神を招じるための言葉に費やされ、後半部分は神から辞すための言葉に費やされています。神に呼びかけるのは、神に対して願うことがあるからですが、その願いは祝詞の中のほんの一部分でしかありません。
 たとえば、よく神社でお祓いをしてもらうときに聞く祝詞である「天津祝詞(あまつのりと)」を見てみます。これは祝詞の中でも、かなり短い部類です。

高天原に神留まります、神魯伎神魯美の詔もちて、皇御親神伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊き祓へ給いし時に生ませる祓戸の大神達、諸々のまが事罪汚れを祓い給へ清め給へと申すことの由を、天津神国津神八百万の神達共に聞こし召せと、畏み畏みも申す。

たかあまはらに、かむずまります、かむろぎ・かむろみのみこともちて、すめみおやかむ、いざなぎのおおかみ、つくしの、ひむかの、たちばなの、おどのあはぎがはらに、みそぎたまいしときに、あれませる、はらえどのおおかみたち、もろもろの、まがごと・つみけがれを、はらえたまい、きよめたまえと、まおすことのよしを、あまつかみ・くにつかみ・やほよろずのかみたちともに、きこしめせと、かしこみかしこみもうまおす。

 祓戸の大神に、罪や穢れを除いてくれるよう願う祝詞ですが、前半「高天原に神留まります、神魯伎神魯美の詔もちて、皇御親神伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊き祓へ給いし時に生ませる」までは祓戸の大神の人物像を描くために使われています。
 神道においては、神は恐るべき存在ですが、祀ることで人間に利益をもたらしてくれる存在に変わりうると考えられています。
 祀るとは、食物や金を捧げることで神に心地よい思いをさせることです。また、巫女の舞いなども神を楽しませます。同じく、神を褒め称えることも神を楽しませます。
 神の人物像が長々と描かれるのは、それによって神の正当な出自を人間が知り、称えていることを示すためです。そして、中に少し人間の望みを入れた後は、さらにへりくだって見せることで神の機嫌を損ねまいとします。
 祝詞は、恐るべき神をどうやってうまくおだてていうことを聞かせるかという、対人(神)関係の技術を凝らしたものです。

 祝詞が使う対人技法には次のようなものもあります。こちらは「延喜式」に収められている大祓詞(おおはらえのことば)です。

高天原に神留り坐す皇親神漏岐神漏美命以て、八百万神等を神集へに集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて、我が皇御孫之命は、豊葦原の水穂の国を、安国と平けく知食せと事依さし奉き。如此依さし奉りし国中に、荒振神等おば、神問(かむと)はしに問はし賜ひ、神掃)ひに掃ひ賜ひて、語問ひし磐根樹立・草の垣葉をも語止めて、天之磐座放ち、天之八重雲を伊頭の千別に千別て、天降し依さし奉りき。

如此依さし奉りし四方の国中と、大倭日高見之国安国と定め奉りて、下津磐根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて、皇御孫之命の美頭の御舎仕へ奉りて、天之御蔭・日之御蔭と隠坐して、安国平けく知食さむ国中に、成り出でむ天之益人等が、過ち犯しけむ雑雑)の罪事は、天津罪と、畔放・溝埋・樋放・頻蒔・串刺・生剥・逆剥・屎戸、許許太久罪を天津罪と法り別けて、国津罪、生膚断・死膚断・白人・胡久美・己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜犯せる罪・昆虫の災・高津神の災)・高津鳥の災畜たふし、まじ物為る罪、許許太久の罪出でむ。

如此出でば、天津宮事以て、大中臣、天津金木を本打切り末打断て、千座の置座に置き足らはして、天津菅曾を本刈り断ち末刈り切りて、八針に取りさきて、天津祝詞の太祝詞事)を宣れ。如此宣らば、天津神は天磐門を押し披きて、天之八重雲を伊頭の千別に千別て聞食さむ。国津神は高山の末、短山の末に上り坐して、高山の伊穂理、短山の伊穂理を撥き別けて聞食さむ。

如此聞食してば、皇御孫之命朝廷を始めて、天下四方国は、罪と云ふ罪は在らじと、科戸之風の天之八重雲を吹き放つ事の如く、朝の御霧・夕の御霧を、朝風夕風の吹き掃う事の如く、大津辺に居る大船を、舳き放ち艫解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く、彼方の繁木が本を、焼鎌の敏鎌以て打掃ふ事の如く、遺る罪は在らじと、祓へ給ひ、清め給ふ事を、高山の末、短山の末より、佐久那太理に落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比売と云ふ神、大海原に持ち出でなむ。

如此持ち出で往なば、荒塩の塩の八百道の八塩道(やしほぢ)の塩の八百会に坐す速開都比売と云ふ神、持ち可可呑みてむ。如此可可呑みてば、気吹戸に坐す気吹戸主と云ふ神、根国底之国に気吹き放ちてむ。如此気吹き放ちてば、根国底之国に坐す速佐須良比売と云ふ神、持ち速佐須良比失ひてむ。

如此失ひてば、天皇が朝廷に仕え奉る官官の人等を始めて、天下四方には、今日より始めて罪と云ふ罪は在らじと、高天原に耳振り立てて聞く物と、馬牽き立てて、今年の六月の晦日の夕日の降の大祓に、祓へ給ひ清め給ふ事を、諸聞食せと宣る。四国の卜部等、大川道に持ち退り出て、祓へ却れと宣る。

 この大祓詞では、神に対して語るのではなく、神という第三者が聞いているという暗黙の了解のうちで人間に対して語る形式がとられています。近くにいるはずの神にあえて語り掛けず、人間同士で神を褒め称え、神ならばきっとこうしてくれるだろうと誉めごろして神にプレッシャーをかけているのです。「天津祝詞」も「大祓詞」も、神をおだてながら、人間の意に従わせるという社会科学的な技術を駆使して作られた祝詞なのです。

参考文献
黒板勝美 「延喜式」(吉川弘文館、1972)


 考察は正確だし、表現もきちんとしてます。途中でいつの間にか"ます"が"だ"になってしまうのはご愛敬。
 さて、"神の人物像が長々と描かれるのは、..."の部分や"この大祓詞では、..."の部分はまさにこの課題の核心。もっと深く議論してったら、いろいろおもしろいことが出てきそうな気がするんだけど。
 たとえば、具体的に祝詞のこの部分が、と指摘してみたり、それを整理して並べて見せたり、とかね。



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