川口桂子さんは、北里大学病院で受診された時、NHKの福祉番組による撮影に応じてくださった方です。
ご主人は若いころの事故で、車椅子の生活をされていて、お二人で、二人三脚の生活をがんばってこられた明るい方です。いつも教えられることが多いです。(注…道本みどり)


避難生活と回復記 @〜D

 
                                             川口桂子さん

NO.1

 平成10年12月2日 2年の入院生活からやっと夫が退院。完治したわけではないのでこれからが大変。
 12月13日 私たちが住んでいる住宅の2棟に、ペンキの吹きつけの組み立てが始まったので、私の実家に行くことにする。
 実家は和歌山から高速を利用して車で1時間30分弱くらい。いわゆる過疎地である。人口も15〜16人くらい、その中に私たち2人はやってきたのだが、一番若いのは私である。私が子供の頃は100人からいた人が、今では減ってしまい、何ともいえない寂しさがある。が、しかし、こんな病気になってしまった私にとっては、他に行くところがないし、ここが一番良いところなのかもしれない。
 家の前が海、後が山で、空気は最高に良いところ、何よりも人がいないのがよい。CSの私にとってはスバラシイところだ。普通の人は、私たちにとって良くないものをあまりにも持っているし、付けている。それで死ぬ思いをしているのを、人に言っても分かってもらえない。変人扱いされるだけである。実家に帰る前に、タンスの中の物は全部、母と妹たちに出してもらい、私が触れられない物は、妹たちの車に積んでもらった。タンスの引きだしはすべて床の上に積み上げ、EMをたっぷり振りかけてもらった。いざ実家へ出発。
 体調はあまり良くない。防虫剤のにおいを少しかいでしまったからだ。本当に何回も何回も運転を休み、神経もズタズタになり、高速のトンネルの中では悲鳴に近い声を上げながら、やっとの思いで帰って来た。よく事故を起こさなかったものだ。実家にたどり着くなり、2日寝込んでしまった。夫どころではない、自分がまいってしまった。私はすぐ、目・息苦しさ・耳鳴り(これはいつものものよりきつくなる)・鉛が入ったみたいな体の重み・口の臭いが起こり、食道から胃の粘膜がやられる。水ものどを通りにくくなり、無理に飲み込むと胸(食道のあたり)が痛くて苦しい。私と夫の世話は、母がやってくれた。

■衰弱しきって避難先へ
 でも、夫の事は、私がしなくてはならない事もあるので、フラフラと起きて、終わると布団に倒れ込むように入る。私が使う物は、自宅から持ってきたが、母は私たちのために部屋を掃除してカーテンまで洗い、タップリと化学糊をつけてくれていたので、体がビリビリとした。硬直して口がこわばった感じだ。この病気の事は母や妹たちに詳しく説明していたはずだが、あまり理解してもらえていなかったみたいだ。匂いに敏感ぐらいにしか思っていなかったみたいで、臭わなければよいと思っていたようだ。
 部屋の中を見渡すと、私の目のふれないようなタンスの中や、押し入れの中などに、合成洗剤や石鹸などがかたづけてあったり、納屋には、灯油の空き缶が置かれてあったりした。母は、目の触れない所にかたづけてあるのなら「大丈夫」と思っていたのだ。タンスの中の防虫剤も、臭いのないものであれば安心と考えて置いてあった。
 その他、仏壇や、匂いを発する物は部屋中にいっぱいあり、言い出すときりがない状態であった。着いたとたん、一気に心配になることばかりであったが、とにかく、私は衰弱した状態でたどり着いたので、詳しく説明する元気もなく横たわった。また、母一人にそれらのことをすべて頼むことも出来ないと思ったし、これからどういう生活が始まるのか、不安でいっぱいになった。ただ、「窓を開けておいてちょうだい」というのが精いっぱいであった。
(つづく)

NO.2

 実家へ帰って来てまる7ヶ月(現在7月10日)が過ぎました。ここにいる限り、たまには100%完治したような気持ちになることがあります。家の中には嫌な匂いもありますが、まったく化学的なとても嫌な匂いを嗅がない日が多く、ここの空気にもなれて私なりに生活がしやすくなって来ています。
 実家のある場所は地図で和歌山市と南紀白浜のちょうど中間に位置していて、温暖な気候に恵まれています。それに海岸沿いで風は強いが、冷えることはあまりありません。どちらかといえば、家の外より中の方が冷えるが、実家は築65年以上の家で、床も高く(60cm以上)畳の間に居ると暖房がなくても大丈夫。家の中は窓を閉め切っても、どこからか風が入ってくる。こういう昔作りの家にどれだけ救われたか……。
 でも家の半分は改造、改築しているので最初、私に合わない所もあり、その場所には近づかないようにしていました。
 私が倒れ込むようにして、この家に帰ってきた時、母は心配して私たち二人にしておくことも出来ず、この家で寝泊まりしてくれたが、私がよけい悪くなるのを見て、やっぱり父の所に帰ると言って出ていってくれました。
 私の父は16〜7年前脳溢血で左半身マヒになり、自分で気に入った家をここから100mくらいの所へ建てて、そこで住んでいます。母は最初、この家に住んでいたが、父も年とともに体がうまく動かなくなり、一人でほっておくことも出来ず、母も父の所へ行き、この家は空き家みたいになっていた。それでも近くなので、毎日窓を開けに来てたみたいです。
 母の年齢は72才。そんなに高齢になって、私と私の夫、自分の夫と3人の病人を抱え込んだ母の苦労は大変なものだったと思います。私の母は男勝りで、体力もとても70代とは思えないくらいで、父の家と私たちが住んでいる実家とを1日何回も往復してくれたのです。
 でも母が着ている衣服には、私が一番嫌な匂いが付いていました。私がこの病気のことを母に話していたので、母は母なりに色々洗剤を試してみて、「自然にやさしい石鹸」をうたっているが、実はただの合成洗剤を使っていたのです。最近よくテレビ等で頻繁に言われている「環境に配慮した……」「地球にやさしい……」とか、そんな誇大広告に釣られて、それが良いと信じて買ってしまう、母もそんなひとりだったのです。無理もありません。私だって以前はそれを使っていたのですもの。

■合成洗剤でキレる
 私は4年前の5月にとても激しい発作を起こし、死の淵から生還したのをきっかけに美容師の仕事を止めました。仕事を止めてだいぶたっているので、洗剤に対する反応も少しやわらいでいるみたいですが、それはごく微量の時だけです。この微量の匂いが母についていたのですが、これが私を別人に変えてしまいます。いわゆるキレた人間になってしまうのです。
 すべての洗剤、柔軟剤、防虫剤のこれら合成のたまらなくとても嫌な匂いを吸うと、ごくごく微量で頭にカーと血が上り、相手をとことんやっつけてしまわなければ気がすまない、強い凶暴性、攻撃性が出てきてしまうのです。他人に対しては何とか抑制できても、私に対して弱い者には追い詰めてしまうところまでいってしまう。もしこれを我慢すると卒倒してしまうかもしれないという、恐いところがある。
 これは何故だろう? すごく微量の洗剤の匂いでこの反応である(ちょっと多めの柔軟剤、洗剤の匂いでは死にそうな思いになるのに……)。これを母にやってしまった。我慢に我慢をしていたのだが、とうとうキレてしまったのです。母のびっくりした顔、「何がどうしたの」というような、とても不思議な顔をして私を見ていた。私の心臓は早鐘のようになり、ハアハアと息も荒く、気が付くととんでもないことを言っていたのです。母を責めた私は胸がスカッとしたと同時に後悔、後悔が後から湧き起こってくるのです。母はすぐ「ごめん」と謝って、ヘナヘナと布団の上に座り込んでしまいました。
 そうして、化学的な臭いは私に良くないこと、たとえごく微量でもだめなことを母に言って、私が使っている純度の高い脂肪酸ナトリウム(99%)のシャボン玉台所石鹸で洗ってもらい、すすぎの時はEMを数滴入れて臭いを消してもらいました。
 でも合成洗剤の毒性はきつく、1回くらいの洗濯では臭いが消えず、3回以上、5回くらいでやっと大丈夫だと思うようになったのです。1週間たった頃から家の中をウロウロするようになり、母に私が駄目な物を取り除いてもらい、私一人でも何とか食事の用意、お風呂に行くこと、洗濯場へ行けるようにしてもらったのです。それまでも時々愚図ったり、怒ったりする私に黙って何でも言うようにしてくれて、感謝の気持ちでいっぱいだったのですが、たまに匂ってくる化学的な臭いに思わず、年老いた母の背中に罵声をあびせたりしたのです。
 母は私が帰ってくると分かったとき、ここは空気がとても良いから後は新鮮な野菜を食べて運動をすれば少しづつ回復すると考えて、小さな畑に色々冬野菜を作ってくれていました。ダイコン、小松菜、春菊、法蓮草、小蕪、ラディシュ、チンゲンサイ、その他色々。でも私は多種類化学物質過敏症(MCS)で、自然のものにも反応するので(特に私は土、草に強い反応(ショック)をする)、母に畑から採ってきてもらって、2時間くらいそのままにして、しなびてから料理をしていました。
 朝、昼、夜と母が作ってくれる野菜、そして外へ出ると人ひとり会うことがないから、いやな臭いもない。また、街中のように道路の端の下水から匂ってくる生活廃水のとてもいやな臭いも全くない。もちろん下水路はない。家の横の溝に流すのだが、人が少なすぎるから色々な物は流れてこないのです。

■クリスマス…愛犬の死
 もうすぐクリスマス……。体の調子は良い方へ向かっているのが分かるが、実家には私たち夫婦が子供のように可愛がっていた愛犬を預かってもらっていました。どういう訳か、その愛犬に近づけません。犬特有の匂いも全くといっていいほどしない室内犬です。愛犬は私の所に来るのですが、私は体が強張ったようになり、とても触ったり出来なかったのです。愛犬はトボトボと母と一緒に父の家に帰って行きました。イブの前日、その愛犬が死んでしまったのです。あんなに大事に思い、また可愛がった愛犬を一度も抱いてやることはもちろん、頭をなでてやることも出来なかったのです。私たちが実家に来て10日目でした。すごい気持ちのショックと悲しみ……。何故こんな病気になってしまったのか。私が、何故こんなわけも分からない病気になったのか……。今だったら、今だったら、抱きしめて私の腕の中で死なせてやれたのにと残念でたまりません。
 この病気の怖さは体の色々な異常ももちろんだが、もうひとつ、自分の体が拒否すると、親でも妻でも夫、兄弟でも、最愛の子供さえ近づけないのである。たとえその者達がどの様な状態になってもです。それが多種類化学物質過敏症の本当につらくて、悲しくて、恐いところです。その愛犬は母が埋めて自然にかえしてくれました。

■正月…海岸を散歩
 お正月。誰も来ない実家。夫が食べているおせち料理は母が作って持って来てくれました。とてもおいしそう。でも私はいつもと同じ食事。朝、母がダイコン、春菊を採って来てくれた。ダイコン葉と人参でお餅も入れて、雑煮を作った。お餅の餅米は母の知り合いの家で作っている農薬1度だけの物である。もちろん見た目は悪いが、おいしい。これがお正月らしい私の食事。
 それと、母が前の海で採ってくる海草(ヒジキ、ノリ、ワカメ等、養殖ではないのでこれも、もちろん見た目は悪い)を食べる。実家へ来てからの私の食事は全て母が作ってくれる無農薬、有機栽培の野菜である。今までは出来なかったが、今年からは食事に気を付けていこうと思いました。
 お正月を過ぎる頃から、この辺りの風はますますきつく吹きつけます。寒さも一段と厳しくなりますが、私は石油ストーブ、エアコン、温風ヒータもホーム炬燵もだめなので、実家にあった小さな電気カーペットを試してみたが、何か変な匂い(合成洗剤)がして、使うことが出来ず、どうしようかと思っていたが、一つだけ良いのがありました。遠赤外線電気ストーブです。3日間スイッチを入れて、最初のあのいやな匂い(ニクロム線、油?)を取りました。夫の部屋は一段低くなっていて、フローリングなので冷えるのです。普段は畳の間に居るのですが、夫の部屋で立って夫の用事をする時はやはり足元が冷えてくるのです。この遠赤ストーブは私に合いました。
 暮れに悲しいことがあり、少し落ち込んでいた私を見て、母は私に散歩に行く様に勧め、強風に逆らわないように歩く道程を教えてくれました。でも海岸沿いの風は台風並みです。1月の中頃から3月中頃まで、毎日とてもきつい風との戦いです。子供の頃(6〜7才)大きな台風が来た記憶がありますが、それ以来、台風らしい台風はこの和歌山県に来ていないのではないかと思います。ニュース等でキャスターの人がいかに台風がきついか、風に飛ばされない様に説明しているのを映していますが、それぐらいの風は冬になれば毎日毎晩吹きつけています。
 この実家へ帰って来る時、妹達からは「私たちは何も助けてあげられないが、出来ることは力になってあげる。お姉ちゃん達は自分の病気を治すことに専念すればいい」と言ってくれたのが、とてもうれしく、また夫のことも私が寝込んで病院へ薬を取りに行けない時も、二人で和歌山まで行ったりしてくれました。だから、私もよけい皆に負担をかけないように体力をつけていかなければと思い、強風の中、母と一緒に歩くことにしました。
 海岸沿いは本当に風が強く、まともに顔を上げて真っ直ぐ歩けないくらいです。最初は体力も無く、300〜400mくらいでゼーゼーと喉の奥で息苦しくなってくるのです。このゼーゼーは私にとって、とても恐いことで、息苦しさ→ショック状態。以前はすぐこのようになったのです。私はMCSになって、全ての合成の物、自然の物への反応以外にも、長距離を歩けない、駆け足で走ることも出来ない、うつむいて掃除も出来ない、長電話も出来ない、重い物を持ち上げることも出来なかったのです。
 徐々に体力もついてきて、1ヶ月くらいすると風の強い海岸沿いの道から山の方へ登っていき、そこから主要道路まで出るようになりました。道路に出ると風も穏やかですが、ゆるいここち良い風は吹いてます。この頃になると気持ちにも余裕が出てきて、潮の香りを胸一杯吸い込んだりしました(潮の香りに反応しなくて良かった)。
 山の主要道路を歩いていても車もめったに通りません。たとえ車が通っても、排気ガスなんかひと吹きで飛んでしまう。私はここへ帰ってきて良かったと思いました。ここのとてもうつくしい空気とこの自然、それに何もかも吹き飛ばしてしまうこの風。いやな匂いを閉じ込めてしまう今のこの冷たさ。春までに何とかこのCSを治そうと思いました。また、ここならぜったい治ると思いました。
 毎日1Kmぐらいを40分ぐらいで歩きます。山の木々を見ながら、海を見下ろしながら、人ひとりに会うこともないから、たまに声を出して唄ってみたり、手足を大きく振りながら歩いたりと自由気ままに楽しいことを思いながら散歩をするのです。家に着く頃にはうっすらと汗も出ています。

■2月…久しぶりの強い発作

 春も間近になり、桜の蕾もチラホラと、私もすこぶる元気になり、2月の終わり頃には本当に治ってしまったと思っていた頃、ふいに集金の人が来て、その人に付いていたとてもきつい洗剤か柔軟剤かの匂いにやられてしまったのです。久しぶりにとても強い反応を起こしてしまった。頭(脳)の圧迫感、激しい動悸、全身のゆるいけいれん、吐き気、耳(頭)鳴り、目の違和感、行動力判断力思考力の低下(逃げ場を探して同じ所をグルグルと回っている)。死にそうな思いになり、涙が止まらなかった。
 ショックだった。CSから完全離脱したと思っていたのに……。夫や母に「長い間、仕事でシャンプー、洗剤等を使いすぎてきたから簡単には治らない」「一生、洗剤、シャンプーはだめかもしれない」と言われましたが、もしかしたらそうかもしれません。でも今までのように呼吸困難を起こさなくて良かったと思います。母は私の発作を初めて見て、とてもびっくりしたようで、私が良くなると母の体調が崩れてしまった。今までの緊張がとれてしまったのか、それとも洗剤の匂いくらいでこんな発作を起こすとは思っていなかったみたいで、私の言っていたことはすこし大袈裟だと思っていたようです。母はあらためて私に「こんなに悪くならないうちに何故もっと早く帰ってこなかったのか、何とかならなかったのか」と言いました……。
 1週間、私は母を車で病院に連れて行ったのです。私は私で、合成の物に発作を起こしても回復するのが早くなったように感じます。脱力感、強度の疲労感は残りますが、それなりに元の生活をすることが出来ます。それからはまた、合成洗剤等の匂いは全く嗅がなくなくなり、体調も改善され、体力もついてきて、これからという時に、実家の裏の家が屋根のふき替えをすると言ってきた。
 それと同じ時期に、「CSネット通信」に森下厚美様のCS日記が載った。これには心臓が止まるかと思うほどのショックを受けました。何回も何回も読み返しました。私が18才の頃から仕事を始めて間もなく、私の体に出始めた色々な異常がそのまま書かれていたからです。
 ただ違うところは、その頃は匂いに敏感になっていなかっただけである。約25年、長い年月がかかって、今の取り返しのつかない体になってしまったのである。というより、体の異常に何ら気付くことなく、病院を転々としていただけだったのです。体調は悪いのにどこの医療機関に行っても「どこも悪くない」と言われ、そんなことがあるだろうか、こんなに悪いのになぜ分かってくれないのか、とても不思議でした。
 それから広田しのぶ様(昨年、運営委員の道本様が北里大学病院へ行く時、私も連れて行って頂き、大変お世話になった方です)の娘様の病気も載っていました。アナフィラキシー。この言葉、病気の怖さ、体がワナワナと震える思いでした。私は仕事を止める半年ぐらい前から、1ヶ月に2回ぐらいこのショックを起こし、1ヶ月前からは1週間に1回起こしていました。
 もう生きていけないと感じた頃、とても強いショックを起こし、ドクターの「なぜ、こんなことになるのだ」と叫んでいる声を遠くで聞きながら、もう遅いかもしれないけれど、もし助かったら、人間として生きていけるなら仕事を止めて、何か分からないこの病気を治そうと心に誓ったのでした。でもこの頃はもう全く仕事は出来なかったのです。仕事を止める1年半前から、仕事で使う薬品に敏感に反応して、ショックを起こして寝込む日が多かったのです。だから広田様の娘様のことはとても気になりました。
 アナフィラキシー、どうなったのか? 今は元気になっておられるのだろうか? あの苦しみに耐えられたのだろうか? あれ以来起こってないだろうか? 自分のことを思い出し、恐くて恐くて、道本様に電話して聞こうと思っても、本当に弱っている時、恐い時には聞けないものです。色々なことが重なって、20日間完全に寝込んでしまいました。1週間は食べることも飲むこともできず、この時は夫と私は母に何もかも世話になってしまったのです。
 こうしてその当時の頃を書いても、その恐怖を思い出し、体が震えてきて胸が苦しくなり涙が出てくるのです。仕事を止めて4年半も経っているのに……。
 後日、道本様に電話した時、チラッと広田様の娘様のことを聞きました。今は元気になり、すっかり回復されたと聞いた時、心の底から安堵したのでした。そして私も、また少しづつ元気になっていきました。
(つづく)

NO.3

 実家へ帰って来て10ヵ月、体力はすごくついてきている。夫も母も近所の人も、なにより私自身驚いている。こんなに元気になれたのはやはり母ときれいな空気のお陰だと痛切に感じている。
 衰弱しきって帰って来た私のために、海岸でゴミ(その中にはナイロン・発泡スチロール・その他、色々入っている)を焼く近所の人たちに強く抗議(?)をしてくれたり、役所から来てもらい、それらをやめない人たちにそれとなく注意をしてもらったり、また、月に一度砂浜の掃除の後、燃えやすいように流木等に灯油をかけるのをやめるように言ってくれたり、母は必死で自分をたてに私をかばってくれた。
 又、何ヵ月もの間、私のために疲れた顔など一度も見せず、父の家とこの実家を一日何度往復したことか。すべて私のため、私の病気をなおすため、その頃の母は、体中が殺気立っているようだった。
 最近の私を見て、元気になって良かったと言ってくれ、安心したのか、気持ちがほっとしたのか、母の身体が萎えてしまった。今までのシャカシャカとした気力・体力がなくなり、使いすぎによってひざをやられ、この2ヵ月、電気治療、マッサージに毎日私がつれて行ってあげている。少しだけの親孝行です。
 春の初め頃は、体力的にまだダメだったが、春の中頃〜夏の初めにかけてとても元気になった。動きたくて動きたくて仕方がないのだが、春は私にとって怖い季節、雑草にも強く反応するのでたまらない。
CSになって自然の物にも反応すれば、たとえ空気の良い田舎へ来ても、それが苦痛になる。ただ事が生えてくる、木々が芽吹いてくる、というだけで、息がしにくくなってくる.もう山道は歩けない。すごい生命力にあふれている草、木の新芽の匂いが全身につきささってくるみたいになる.海辺だけど山も近いので、春がすみで風のない時などとてもイヤな臭い(普通の人には新緑の良い匂い)が鼻をつく。
 ところが今年は、イヤダナーと感じながらも海岸沿いは歩けた。吸い込んだ匂いが喉、脳につきささるが、以前のように「ゼー」とゼンソクみたいになってこない。うれしい。

■草に反応し始めたころ
 和歌山の自宅にいた頃(仕事を止める前の一番ひどい時)は、何故か分からないけれど、草に反応しだして、ある時、草ひきをして2回ショック症状になった。
 その頃診てもらっていたドクターが、「川口様は雑草アレルギーが非常にきついから気をつけること。草をひいたりしなくても側を通る時も気をつけること」と言われた。が、つい最近まで自分で花等を作っていたのに、今まで出来たことが何故できなくなっていくのか、又、土を踏んでも同じような症状になるのか、今まで好きだった匂いに身体が敏感に強く反応していくのか、自分の体質が異様に変わっていくのがとてもこわかった。
 なぜ、なぜ、なぜ?私の身体に何が起こつているのか分からない。
 自宅の裏に子供の遊び場がある。プランコがあるだけの場所に近所の子供が来ていたのを知らず、窓を開けていた。あっと思った時にはもう2〜3回呼吸していたので、ショックぎりぎりまでいったことが4〜5回ある。
 とにかく息がしにくくなってくる。息ができなくなるというのは、とてもこわいことで、私は生きていけるのだろうかと毎日が不安だった。
 ただアレルギーがきつくなったと言われても、自分では何かちがう気がしていたし、でも何か得体のしれない物がジワジワとおし寄せてくるような感じだった。

■発症までを振り返ると
18歳の時、私は美容師の見習いとして働き始めるが、このCSを発症した原因のルーツをたどっていくと、小学校2年の時、一酸化炭素中毒で意識不明になったことがある。そして20代の頃にも一度なっている。CSのきっかけはこの中毒症状があるのではないかと思っている。
 そして美容の仕事。夢もいっぱいで、未来がばら色に思えていた時、仕事はきついが楽しくて、何もかも順調にいくと思っていた日々、毎日使うパーマ液、ヘアダイ、その他色々の薬品の匂いは嫌いではなく、気にもならず、好きなほうだった。
 でも私の顔先にお客様の頭があり、仕事をしている間中ズーツと何かの薬品を吸い続けている毎日、手にもいっぱい色んな液がつき、乾くことがない。おまけにお客様の吸うタバコ……。女性が相手の仕事だから、オーデコロンまで化学物質だらけの中で、換気はしていても一日中空気の悪い所で一定の温度に調節されてほとんど汗もかかずに毎日をすごした。
 一年くらいたった頃、鼻炎になった。この鼻炎がきつくて、年中だったがとくに冬はひどく、店内に入るととたんにクシヤミ100連発、涙、鼻水ザー、寒け、悪寒、頭がボーツとして半日くらい仕事にならない。又、体温調節ができないみたいで、身体の中はカーツと敷いのに皮膚の表面が寒くて鳥肌がたっている。春の終わりから夏の間はすこしやわらぐが、365日この状態だった。
 又、手あれもひどくて手の平全体が赤くなり、指の皮膚はとても薄くなり、肉の上に薄皮がはっているみたいで物を持ったり握ったりすると指の所々が裂けて血が滲み出てくる。湯飲み茶わん等は素手で持つことができなくて、熱がじかに伝わらないようにタオルやハンカチで挟んで持っていた。
 何故か分からないが、気管支炎みたいなものも4〜5回美容の仕事を始めて5〜6年たった頃から喉の奥の方がイガラっぽく、いつもイガイガしていた。まるでクリのイガが入っているみたいで、絶えずセキをしてそれを出したい気分だった。
 又、その頃からたまに口へ入れる物が飲み込みにくいこともあった。
 そうなるとてきめんに胃も悪くなってくる。喉の奥から食道、胃にかけてなんとも言えない灼熱感みたいな感じがあり、これがおこると裂けるみたいに痛く、水分はゴボゴボと音をたてて流れていくみたいになる。
 この頃から頻繁に病院へ行くようになり、だが、どこの病院へ行ってもどこも悪くない、ただの胃炎だ、と言われた。
 20代中頃から病院のハシゴをする。訳が分からないけれど、体の御子が悪い。こんなに悪いのになぜ分かってくれないのか不思議だった。

■自分で店を持つ
 29歳の時、自分で店を持ち、開店した時からお客様がいっぱいで、毎日がとても忙しかった。朝9:00頃から仕事が終わるのはいつも夜9:00を過ぎていた。そんな毎日だから食事は作れない。昼食はコンビニのお弁当かオニギリ、夜は近くの店から店屋物を取る。なにしろ1日の仕事が終わるとホッとした。食事の後、1日分のタオル80〜90枚の洗濯、それから掃除、全部終わるのは10:30をまわっていた。
 体はクタクタになっているのに眠れない。何日も眠れない日が続き、あるとき、食事もできず、そのまま夢も見ないで泥のように眠ってしまう繰り返しが続く。相変わらず病院通いは続いていた。
 32歳の時、胆石症の手術をするが、その時にうけた痛み止めで死の恐怖を味わった。1本日の痛み止めの後、半時間もたたないで2本日を打った後、目の前の物が歪んでグルグルまわっている。胸がしめつけられる感じ、体の底から込み上がってくるような吐き気、意識もうろう、強烈な頭痛、寝てもおきても坐ってもいられない。声も出ない。心臓が早鐘のように打っている。息も速くて浅い。私の人生、これで終わりだと思った。助かった時は、自分の体・心臓に感謝する思いだった。
 よく持ちこたえてくれたものだ。まさにのたうちまわったのだ。退院して半月休んで仕事に復帰したが、待っていてくれたお客様で今まで以上に忙しく、仕事が終わればバタンキューと寝る毎日が続いた。
 私は何もかも自分で気のすむようにキチッとしなければイヤなほうで、他の人を雇う気はサラサラなかった。その頃、私は掃除の時に使う住まいの洗剤も素手で使っていた。今思えば、何をするにしても私は素手だったのてある。もちろん臭いも何ともない。タオルの洗濯も衣服類の洗濯も、後は柔軟剤をタッブリ入れて「う〜ん、いい匂い」と満足していた。
 手術をして2〜3カ月ぐらいたった頃、あんなにひどかった鼻炎、手あれがうそみたいにピタッとおさまった。体の調子もある程度よくなり、やはり悪い所がなくなれば体もよくなるのだ、と感じていた。

■再び症状が
 2年ぐらいたった頃、足とか体のあちこちに発疹みたいな物が出始め、だんだんそれが大きくなってくる。蕁麻疹だった。いつも体のどこかに2〜3出るようになる。
 原因不明の頭鳴り、耳鳴りとは違って頭のてっぺんの方で鳴っている。時々おそってくる目の痛み、キリで刺されるような傷み、目の凝り、今までなかった首、扁の凝り、たまに動悸もしてくる。又、胃の具合も悪くなってきたので、病院を転々とするが、分からない。胃というよりやはり喉・食道・胸・胃のまわり、腹の方まで全体で内臓が動いていないみたいな感じがした。消化不良を起こしたみたいでゲップがたくさん出た。生あくびも出過ぎる感じで、何とも言えない気持ちの悪さである。
 毎日いつもどこか悪くて、でもどこの医療機関で診てもらってもどこも異常なしといわれ、とても不思議な気がした。体のどこも悪くないと言われても、ではこの不快感は何だろうと思い、不安だった。そんなはずはないと思った。
 平成と年号が代わった頃から、体調はますます変な方へ変わっていった。いつも上半身は不快感でいっぱいなのだ。バストラインから上の方が何かつまってばんばんに張っている感じがした。脳は頭蓋骨に圧迫されて押しつぶされる感じがするが、言葉ではどう表現したらいいか分からない。胸の方全体も、やはり調子が悪い。ゲップ、生あくびが出ずっぱり、我慢すると胸・背中に何か体中が得体のしれない空気みたいな物が入つてパンパンに腫れ上った感じがする。目もうるんで充血する日が続いたりする。
 それでも毎日忙しく仕事をしていた私は、朝、キッチリお化粧をしてすこしオーデコロンをつけ、マニキュアもして月に1度、パーマや毛染めもしていた。

■症状の激化
 そんなある日、食中毒みたいなものを起こした。全身蕁麻疹、目もウサギの目みたいに真っ赤、激しい吐き気、嘔吐(1時間くらいの間に11〜12)、動悸、息苦しさ、胸苦しさ、熱。こんな状態が4〜6時間続いた後はグッタリとして起き上がることもできない。目を閉じると奈落の底へ引き込まれる感じがして、とても怖くて、フトンの上でただ横になっているだけだった。この後3〜4日は体が重くてトイレヘ行くのが精いっぱいだった。ちょうど全速力で5〜6時間走ったみたいな状態だ。最初、1年に1度くらい、2、3年たつ頃から、ちょくちょくこの状態になった。この頃になると肩凝りもひどくなり、目の痛み、顔の中がツーンとした感じ、又、頭鳴りもとてもひどくなって、脈拍も飛んだり、動悸がひんばんに起こるようになった。
 体の具合はとても悪くて、仕事を休む日が多くなってくる。この食中毒(?)みたいな状態はだんだんきつくなって行き、本当に何なのかわからない。これ以上きつくなると生きていけるのかとても不安だったが、どこで診てもらってもやはりどこも悪くないと言われた。
 ある朝、一番に来店したヘビースモーカーのお客様のタバコの煙で心臓が今までにない、とても怖い状態になった。脈が途切れて今にも止まる感じがした。トンと打った後、なかなか次が打たない、スーツと血の気が引いて行くのが分かった。4〜5回この状態が続いた後、やっと普通に打ちだした時、顔がホーツと血が通った感じがした。お客様にすぐ帰ってもらい、夫に車で、診てもらっていた病院へつれて行ってもらって24時心電図を取った結果、ドクターは脈拍は50〜52ぐらいしか打っていない時もあり、著しい不整脈でいつどうなってもおかしくない状態と言われた。
 月に1〜2度起こる食中毒みたいな発作は、食物アレルギーになってきていると思い、アレルギー検査をしてもらうと、大豆、エビに反応すると言われた。が、そんなバカな、大きな声では言えないが、私は大豆の水煮が大好きで、味をつけて煮なくても、そのままおやつがわりに食べたりしていたのだ。子供の頃から。それにエビ、これも大好物でよく食べていた。
 普通のアレルギーの人が食べられない物には私は何も反応しなかったらしく、ドクターは「変ネー」と言ったりしていた。だけど発作はたびたび起きる。その都度ドクターは、今日食べた魚、2日も前に食べた魚、タマゴ、その他、それらしい食物のせいにした。が、何か違う。分からないけれど絶対違う気がしていた。食事をするのが怖くなり、何を食べて良いのかわからない。お米だけは安心して食べられたので、ごはん、つけもの、カツオプシ、梅干し、自身の魚、野菜のおひたしぐらい。
 又、薬アレルギー(?)も出てきたみたいで、22〜23歳くらいから飲んでいた生薬だけでできている「恵命我シン散」という胃薬が合わなくなってきた。これは他の薬と服用しても大丈夫な薬と聞いている。それが合わない。飲むと消化不良(?)、蕁麻疹、ゲップ、胸・背中が板を張ったみたいにコリコリにかたまってしまう、吐いてしまう。医者にもらった胃薬は全部合わない。よけい悪くなる。時々使っていた目薬が、あまり目が痛いので、挿したとき、潰れてしまうのかと思うほとショックを受けた。目を押さえてころげまわった。涙が出て止まらず、目を開けようにも開けられず、本当に怖かった。5時間くらいボーツとして物が見えにくい感じがした。不整脈の薬を飲んだ時もショックぎりぎりまでいった。以来、服用していない。

■仕事に使う薬品にも
 この頃になると発作はひんばんに起こり、仕事はほとんど出来ない状態になっていた。仕事に使ういろいろな薬品の臭いに反応し出した。特にスプレー類を使うと、部屋に居られない、頭(脳)がつまってくる感じ、ヘヤダイは息もできないくらい苦しい。怖い。心臓が止まる感じ。化粧品等の香料は近づけない。
 これらの物を吸い込む等をした時の症状は、何か透明の「プルン」とした物(私だけに見える)が目の前に表れる。そうなった時は、いつも目の前にそれがあり、逃げられない。避けられない。スーと体の中に吸い込まれるように入ってくる。ネットリとした冷水を浴びたような冷たさが体中を流れる。体中の細胞がざわついているのに不気味な静寂、冷や汗、全身の硬直、圧迫感、ケイレン、声変わり、目の充血(真っ赤)。
 こうなるともうたまらない。短時間で(10〜30分)大発作が起こつてくる。どうしようもないほどの動悸・熱・吐き気・嘔吐・全身蕁麻疹・悪寒・息苦しさ・下痢・血圧の異常・息もたえだえで苦しく、そして呼吸困難。苦しすぎてベッドで寝ても起きてもいられない。今思えば、あの状態で本当によく生きていられたものだと思う。その時のドクターも「ステロイドは使いたくないが仕方がない」と言いながら点滴をした。
 又、何かを触った時は、手から侵入することもあったが、これは一瞬のうちに電流が洗れた感じで、強い吐き気、頭重感、強い動悸、パニック症状で動きはまるで宇宙遊泳だ。足が地についていない感じになる。これもとても怖いが呼吸困難はない。これら不思議な症状は、ドクターには言っていない。とても信じてもらえないし、精神異常かと思われる。私自身、他人がこんなことを言うとやはり変に思ってしまうと思う。
 ほとんど寝込んだ日が多くなり「もう生きていけないのではないか」と思った。こんな強い症状が出るのにどこも悪くないなんて、ドクターも私も不思議だった。何かとても怖い大病が潜んでいるのではないかと思った。
 ステロイドの点滴も1本だけでは効かなくなり。2本日を打つようになってきた。でもこの点滴をするのも苦しいのだ。とても薬品臭くて、鼻の奥へキーンと入つてくるようで、痛い。また、腕をアルコール綿で拭かれるのも、大声が出そうになって、体がピクンと飛び跳ねるのを必死でがまんする。

 そんなある日、「ニュース和歌山」という地方紙みたいな新聞に目が釘付けになった。聞きなれない「化学物質過敏症」という言葉があり、歯の治療でCSになった道本様の事が載っていた。読めば読むほど私の症状によく似ている。 平成7年4月18日、思い切って道本様にTELをしてみた。とても落ち着いた声で、ひとつひとつ丁寧にCSの説明をして下さり、私の症状や何かが体に入る感じも言ってみたが、私の言うことはすべて理解して下さった。
 やはりそうだったんだ、という思いと、長い間の体の不調、不安が分かって、怖いというより安堵感の方が大きかった。

■仕事をやめる
 そして4月の終わり、5月の初めに大発作が起き、仕事をやめた。自宅は仕事をやめる1年半前に市の住宅を借りていたが、ここが又、すごい殺虫剤の臭いのする所で、休日に来て、いつも空気を入れ換えたりしていた。
 殺虫剤はシロアリ駆除剤。畳。壁や窓枠・ドア等のペンキ。フローリングのワックス。部屋の外からは自宅の上4軒分の合成の洗剤など、その他いろいろなものが流れこんでくる。又、両隣の洗濯物の臭い。又、隣接している前後の棟からもさまざまな臭いが溢れかえっている。昼間は家の中で息をころして坐っている。夜10時を過ぎるころになると、窓を開け、外気を入れる。そんな生活を余儀なくされていた。24時間息苦しく、蕁麻疹はいつも方々に出ている。そのうち目が変になってきた。とても眩しくて太陽の光が水に反射しているみたいにキラキラ光って、目を開いていられない。部屋の中も眩しい。テレビ等、明るいものはとても見られない。白い紙・本の文字・明るい色。外へ出ると日の中に光がとび込むみたいになって痛く、開けていられない。うす目を開けてそっと見ると、何かうす暗い感じがするが、そのくせピカピカ光が反射している。
 夫は、家に居るより外の方が良いと言って、私を車で人家のない所へ連れていってくれた。夜はとっぷりと日が暮れて帰ってくる。また、寝るときも、畳の臭いも気になって、フトンに入れない。(ベッドではないから)朝方まで窓辺でもたれて仮眠状態。3時ごろやっとフトンに入って眠る。心臓痛(?)もしてくる。体が重い。TELに反応する。ここの自宅で暮らすようになって今まで感じなかった所が一気に悪化、目の充血もひどくなり、蕁麻疹は体中出ている。

 そんな頃、今まで珍て下さっていたドクターが替わった。今度のドクターはこの病院の若い院長だったが、ステロイドをいとも簡単に打つ。症状が激しくなくても受診するとすぐ打つ。又、ステロイドが1本の点滴で効きにくくなってきているので、どのドクターに、このままで大丈夫なのか、この薬が効かなくなると私はどうなるのか、と聞くと、「大丈夫。薬の量が増えるだけ」と簡単に答えた。
 そんなバカな。ステロイドの怖さは医師が一番知っているはずだ(まあ、私のきつい症状のときは仕方がないが……)。1週間に1度、又、10日に2度打ってばかりで良いはずがない。
 仕事を止めて7ヵ月、止める前のとても激しい症状は心持ち和らいだかに思えるが、全身症状はとても悪い。12月に入って私は和歌山の日赤病院へ替わった。
(つづく)

NO.4

 この不思議な環境病になって初めて、化学物質の恐怖が分かったような気がする。
 私が小学校低学年のころ、母方の祖母の家へよく遊びに行った。そのころの祖母は、もう60代後半だったと思う。母の実家は農業をしていた。あの強烈な農薬、ホリゾール、DDT等がひんぱんに使われていたころで、また、プラスチック、ナイロン、インスタント食品、化学調味料、その他の化学物質がいろいろなかたちで出てきたころである。
 そのころは、どこの家でも、ごみは畑で燃やし、燃えないごみは川や海に捨てていた。現在のように、ごみの収集はなかった。
 祖母は、私にいつも「この世にない物は、畑の枯れ草、木々の枝等と一緒に燃やしてはだめ」と言って、どんな小さなナイロンくずでも探し出していた。祖母は、化学製品のことを、「この世にない物(自然界にはない物)」と、いつも言っていた。そのころの祖母は、それらの物がどれだけ毒性があるか、多分何も知らなかったと思うが、それらの物に対し、何か不気味な感じを抱いていたのであろうか。
 家のごみといっても、ほうきで掃いたほこり、風呂のたきつけのくず等で、それらは風呂の柴と一緒に燃やしたが、やはり祖母は絶対、ナイロン系は燃やさなかった。私は「灰になればみんな同じなのに」と子供心に思っていたが、祖母は一緒に燃やすことを絶対に許してくれなかった。なぜなら、それらを燃やしたあとの灰を、畑の土に混ぜるからである。そうすると、作物の出来が良いのだそうだ。
 私がMCSになって、何にでも反応しやすいけれど、枯れ葉、枯れ草等を燃やす煙は、今は大丈夫になった。でも、少しでもナイロン系が入っているとだめ。その煙は、悪魔のように私に襲いかかってくる。祖母は83歳で約18年前に亡くなったが、私のこの環境病を知ったら、何と言うだろうか。祖母は「この世にない物」を使うことも、あまり好きではなかった。
 今こうして、祖母のことを書いていると、祖母の顔が浮かんでくる。もう一度、祖母が作ってくれたものを味わってみたい。お味噌、お醤油、コンニャク、柏餅、その他、名前は忘れたが昔のいろいろなお菓子を、おやつによく食べたものだ。祖母が炒ったお茶、これは少し青くさくて、あまり好きではなかったが、今はもう飲むことが出来ない懐かしい味である。あのころの食生活に戻ることが出来たら、もしかしたら私のこの病気も治るのではないかと、密かに思っている。

■転地の効果
 今でも、微量の化学物質で反応することがある。しかし、回復するのも早くなっている。実家の周囲の空気が、汚染されていない空気だからである。でも、こうして環境が良い所へ逃げて行ける人はごくわずかだろうし、もし良い場所を見つけられたとしても、そこまで行く乗り物がないから行けないという人も多いと思う。そんな重症の人たちはどうなるのか、とても心配だ。いつも心の中でモヤモヤしているこの思い……本当に澄んだ空気を吸うことが出来たら、きつい発作、症状は収まるのになあ、と思っている。何とかして、そんな場所まで行き着くことは出来ないのか。患者も、今いる場所で同じ苦しみを味わい続けるより、何とか乗れる車などで、良い場所へ行ってみるのも一つの方法かもしれない。試すことはとても勇気がいるし、恐いことであり、行動を起こすには細心の注意が必要だが、私の場合は成功だったと言える。

■仕事をやめた直後の症状
 仕事をやめた直後は、症状は改善に向かわなかった。体、顔の腫れ、むくみは消えることがなく、頭の中でワーンワーンという音が四六時中、鳴り響いた。耳もずうっと奥の方で、ツーンとした感じになっていた。
 自分では分からなかったが、このころは耳も聞こえなくなっていたらしく、夫に言わせると、とても大きなボリュームでテレビをつけていたという。テレビは見るためにつけていたのではなく、意識があるのを確かめたいからで、テレビの音が聞こえることが自分がまだ生きている証のように思えた。家にいる時は最悪なので、車で外へ連れて行ってもらったり、少し気分の良い時は自分で運転して、ほとんど毎日外へ行っていた。
 もちろん、出かけた後の家は、窓はすべて開け放し、換気扇は付けっぱなしにしている。泥棒や他人が留守の家に入っても構わないという気持ちだった。ただただ、発作が起こらないようにすることだけを考えていた毎日だった。
 じんましんは顔、体のあちこちにいつも点々と出ていて、いつも増えていないか鏡でチェックしていた。
 ゆっくりと発作が起こる時の症状は、まずじんましん、そして体のどこか(腕、脇腹、肩、手の甲等)がプクッと膨れてくる。これが出てくると、息苦しさ、喉の奥の方で喘鳴、後頭部の痛み(頭が壊れるのではないかと思うぐらいの痛さ、ハンマーか何かで殴られるみたいな感じ)、何とも言えないくらいの肩のこり、目の充血、動悸、下痢、吐き気、などが出る。吐くたびにじんましんひどくなり、全身腫れ上がってしまう。そして呼吸困難。
 以前診ていただいたドクターからは、私の場合、体の表面はもちろん、体の中にもじんましんが出て、気道が腫れ息苦しくなっていることや、気道がふさがってしまうと死んでしまうこと、胃腸などの内臓にも出ていること、手遅れにならないうちに治療しなければ生命の保証は出来ないことなどを言われた。
 また、頭の中も圧迫されているような、とても変な感じがしたので、ドクターに「じんましんは脳にも出来るのか」と尋ねると、「ある程度は浮腫するかもしれないが、心配するほどではない」とおっしゃった。しかし、私には、脳が腫れて頭蓋骨に当たるのが分かるような気がした。脳が感じる、この不気味な感覚……。こんな体験をした方、また、している方、いらっしゃいませんか?
 ステロイドの点滴で症状を抑えていたが、発作が収まった後は、起きあがれないぐらいの疲労感、倦怠感でクタクタ。顔はじんましんの赤みは消えるが、ドッジボールのように膨れてブヨブヨ。目は、指でまぶたを上げないと、目の前にまぶたの皮膚が垂れ下がって前が見えにくかった。
 発作が急性の時も、ある程度時間をかけて起きた時も、こうなると、いつも3〜7日は入院した。だが、自宅にいる時より、病院にいる方が、症状は良くなってくる。診察の場はいろいろな薬品があるが、内科は外科より比較的少ない。病室に入れば、においは少ない。でも、ドクターやナースの白衣、ベッドシーツのクリーニングのにおいがすごい。体のビリビリ感が一気に高まった。
 また、何度も吐くので、喉から食道、胃は荒れて、唾を飲むのも痛かった。胃はしみて、水分も受け付けない状態になった。
 いつも病院へ駆け込むときは、顔はパンパンに腫れ上がり、全身はみみず腫れになった状態だったから、ドクターは私の素顔を知ることが出来なかったようだ。初めて私の腫れていない顔を見た時、ドクターはカルテの名前と私の顔を何回も見ながら、ナースに「これかが本当の顔か。よく覚えておかなければ」と言っていた。
(つづく)

    NO.5

 自宅で暮らすようになって、24時間換気をし、夜10時を過ぎるころから窓を開け空気を入れたりしていたので、10カ月ぐらいたったころから何とか住みやすくなった。でも、朝7時から11時ごろまで、夕方3時から10時ごろまでの時間帯は、近所の方たちの洗濯、台所仕事、風呂の掃除等々、たまらないにおいが入ってくる。自宅の風呂の窓の下には、わが家も含めて5軒分の排水口、台所の窓の下には、また同じ排水口がある。
 これら汚染された水が流されてくるたびに、すごいにおいが入ってくる。だから、水の流れが聞こえると、わが家も水を流して、汚染水が早く流れていってしまうようにする。だから水道代がバカ高い。
 わが家の洗濯は、他の人の昼食時間帯、干すのは夜寝静まってから。でも、このごろは私の着る物も限られていた。タンスに入れた物は着られない。防虫剤を入れていたので、開けることも出来ない。3枚のトレーナー、2枚のスラックス、秋冬はこれだけ。夏物は比較的洗濯もしやすく、防虫剤も入れていないから着やすい。だが、合成洗剤のにおいを消すのに大変だった。夫の物も私と同様だったから、着る物はあってないようなものだ。
 ちょくちょく私の様子を見に来てくれていた友人が(私のCSを理解してくれていたので、私に会う時は自分なりに気を付けてくれていた)、ある日「いつ来てもここは殺虫剤のにおいがするのはなぜ?」と私にきいたが、殺虫剤等を使ったことがなく、やはりシロアリ駆除剤のにおいが普通の人でも感じるぐらい、この自宅全体に染みついていたのだろうか。

■「二度と来るな」と言う病院
 車椅子の夫は、突然襲ってくる私の発作で、毎日が心配の連続だったと思う。どんな強風でも雨、雪でも夜中でも、悪くなると病院へ連れて行ってくれた。
 夫もこの自宅で生活するようになって、体の様子がいろいろ変わったように思えた。それでも私の世話、買い物、自分のことすべてを、不自由な体でやり通してくれた。
 1年半ぐらい過ぎたころ、今までの激しい発作はあまり起こさなくなった(でも月に1回ぐらい、それに近い状態になってくる)。
 日赤病院に変わって、若いH医師が主治医になった。親切心のあるドクターで、時間外に急患で入っても、ドクター自ら夫の待つ車まで行ってくださり、いろいろな説明をしたり、今度は入院すること等を伝えに行ってくださった。
 私はなぜ病院へ行くのか。私も相当重症のCS患者だと思うが、この発作(ショック)が起きれば、生きていけないからだ。本当の呼吸困難で息が出来なくなるこわさは、言葉では言い表せない。そして、それをドクターに知ってもらいたい。何より私は「体の不自由な夫より先に絶対死ねない」と思っていたからである。
 だが、今まで病院を転々と変わっていた時、一度でもこの大発作を起こすと、どこの病院でも「うちでは手に負えない。ほかへ行ってくれ」とか「もう二度と来ないでほしい」と言われたりした。医者に見放された患者ほど心細いものはない。生きていくのを否定された感じになる。とても怖いことだ。
 患者にとって、少しでも思いやりのある言葉は、とても安心感を与えてくれる。だが、やはりCSのことは何も分からない。言っても100%分かってもらえないだろうし、専門知識のない者が言っても、まともに聞いてもらえない。ましてドクターでも聞いたことのないCSなんて、一笑に付されてしまうと思う。

■夫の入院
 いつも、私の世話をしてくれていた夫が、突然病気になってしまった。ICUに入っていた時は、私も大変だった。夫に付き添うわけにもいかなかった。全身蕁麻疹、息も絶え絶え、苦しくて苦しくて、私も入院。夫は私の母、夫の妹にみてもらった。一番生命が危険な時に、何もしてあげられない悔しさ、焦り。何度も何度も、私も発作に近い状態になり、治りきらない間に退院するので、主治医もナースも「自分の体も大事。自分の命も大切にしなければ」と言ってくださった。
 ある日、何回目かの入院の時、個室しかなく(これが初めての個室ではない)、その時は重症だったので「10日の入院」と言われた。病室へ行くまで、ドクターは2回、私に「入院費は払えますか」ときかれ、病室へ入ると「本当に入院費は払えるのですね」と念を押して出て行かれた。苦しかった私は何も考えず、早く点滴で発作を抑えてもらうことばかり思っていた。私は時間がたつと、だいぶ症状も収まってきて、ドクターの言葉が頭に浮かび、「なぜあんなことを私にきくのだろう」と思い、「今まで入院費等を借りたことも踏み倒したこともないのに、なぜ?」と不思議だった。
 翌日、起きあがれるようになり、洗面所の鏡の中の自分を見て納得した。髪の毛は自分でカットするから長さがそろわずバサバサ。服は洗いざらしですり切れている所もあり、伸びたりしている。私はいつも2〜3枚の服を着回していて、病院へ行くときもその中のすり切れた1枚である。入院しても寝巻に着替えることもなく、退院するまで着たきりである。いつもその姿だから、ドクターは私がいつも生活に困っていると思ったのでしょうか。夫は車椅子の障害者。私はいつ見ても同じヨレヨレのトレーナー、膝の出たパンツ。「なるほど」と自分で納得してしまった。
 今はだいたいの服は着られるようになったが(ただし、以前防虫剤を入れたタンスから出した物は、昨年7回洗ったがまだ着ることができない)、見るからに毛羽っているものはダメである。また、ウール100%、シルク、オーガニックコットンはにおいがきつく感じ、天然の物だから大丈夫とはいかない。合成洗剤は6〜7回ぐらい洗えば何とかにおいは取れるが、防虫剤は何度洗っても無理かもしれないと思っている。天然のウール100%、オーガニックコットンもにおいが取れにくい。今はウォッシャブルシルクがあって良いが、洗いすぎると生地がとても傷みやすい。着ない間に着られなくなるのが難点。
 夫はリハビリのため、専門の病院へ転院したが、それまでの入院先は、私にとって、とっても苦しい所だった。本当に「このまま私もダメになってしまう」と感じていた。今度の入院先も、とてもきつく感じる所で、まるで強風の砂嵐の中へ入っている感じで、目を開けて前に進んでいけない。砂嵐など吹いていないから、そんなはずはないのだけれど、病院特有の薬品臭、人のにおい、他人がつけているいろいろな何とも言えない悪臭が全身に突き刺さってくる。毎日毎日、蕁麻疹が花盛り。体のあちこちにいつも出ている。また、喉の奥から食道、胃、腹、腸にかけて、内臓が動くみたいで、何とも言えない気分の悪さ。特に喉、食道、胃から飲んだ唾が下に下りず、ネットリとした卵白のような物が込み上がってくる。喉から胃にかけて焼けただれたようで、苦しくて起きていられない。このころの私は本当に「夫を残して先に逝くわけにはいかない」という、その一念で看病していたように思う。「私の意識のあるうちに、この人を殺して一緒に連れて逝かなければ……」と。そのために、意識不明には絶対なれないと思っていた。やはり一番、呼吸困難が怖かった。

■理解ある人たちに恵まれ
 病室は4人部屋で、若い男の子たち(21〜32歳)で、私のことをいろいろ話してみると、案外すんなり分かってくれて、とても気を付けてくれた。たとえば、だれかが合成洗剤のフタをするのを忘れていた時など「洗剤のにおいが出て、川口様の奥様が居てられない」と大声を出してくれたり、院内で何かあると「今日はそこへ行かない方が良い。ぼくでもくさい」と教えてくれた。何かを使う時でも「これは大丈夫?」ときいてくれ、ダメだと分かると、部屋から出ていってくれた。また、ドクター以外の病院のスタッフの皆様にも理解してもらえて(ただし、CSのことはまったく分かっていない)、それなりに気を配ってくださった。おかげで最初は苦しかったが、だんだん居やすくなり、体調も何とか、私なりにいろいろなことにも我慢できるようになっていった。が、蕁麻疹はいつも体のどこかに出ていた。
 病院のスタッフも手伝ってくださり、私も頑張って夫の介護が出来るようになり、まずは一安心(スタッフの白衣がとてもきついにおい。部屋にそのにおいが残って困る。触れた物にもにおいが付いて取れずに困る)。
 部屋の3人の男の子たちには「柔軟剤は使わないで」とお願いしてあった。洗剤も、特に使わないでほしい物を言ってあったので、部屋はとても居心地が良くなった。洗剤は、エマール、モノゲンほか(ドライマークで洗えると書いてある物)。特に、エマール。これは、5mぐらい離れていても分かるぐらい。脳と心臓にグサリとくる。それから運動神経が変になるのか、足がもつれる、パニックみたいになり、息が止まるかと思うほどの衝撃がある。アリエール。これもとてもきつい。神経に悪く作用する。液体の洗剤もダメ。
 柔軟剤では、特にハミング。これは変な物をバケツでバサッと浴びせられたようになり、あのどぎつい悪臭が辺り一帯に充満して、一息するたび死にそうになる。コマーシャルで持続する良い香りを強調しているが、とんでもない。あんな猛毒ガスみたいな(CS患者にとって)においを、まき散らさないでほしい。普通の人でもにおいに敏感な人もいるし、皆が皆、それらのにおいが好きとは限らない。合成の香りが体に良いはずがない。世の中には、これらの物が体に合わない人がいることも分かってもらいたい。ただ嫌いなだけでなく、合わないということを……。
 同室の男の子たち、また、病院のスタッフの方は、いつも私の体の調子を気遣ってくださり(中には露骨に嫌な顔をする人もいたが)、とても安心して入院生活を送ることが出来た。夫のことも、私が言うように看護してくださった。私は運悪く、こんな環境病になってしまったけれど、いつもその時々、夫はもちろん、いろいろな人たちに助けてもらっている。この病気のことは分からなくても、それなりに理解(?)してもらえて、同じ患者の中でもラッキーな方ではないだろうかと思っている。

■高崎ドクターのタッピング
 余談になるが、私はいつもどこかへ車で出掛ける時、以前このCSネット通信にも載っていた、心療内科の高崎ドクターに教えていただいたタッピングを、自分で納得するまでして外へ行くことにしている。
 これは、心理的動揺を抑える作用があって、夫が入院した後、すべての用事は私一人がしなければならず、車で出掛ける前から「運転中に変なにおいをかいで悪くなったらどうしようか」と不安になったり、車のエアコンも使えないので夏はとてもつらく、車に乗る前からドキドキしてきたりする。そんな心の動揺を抑えるのがタッピング。これは私にとって、とても効果があったように思う。もちろん、すべてに効いたわけではないが、運転中、何度も何度も繰り返し頭の中でタップをすれば、何とか行き着くことは出来た。ただ、合成のにおいを吸ったり触ったりした時の体の衝撃、動揺を抑えることは無理だった。
 高崎ドクターは元は小児科医だったが、何らかの事故で体が不自由になられ、今、心療内科をされています。CSのことを一番理解してくださっているドクターだと思っています。アレルギーを起こしているものを調べる「TFT」という検査法を、アメリカのワークショップで習得され、ほかのドクター等にワークショップで伝授されています。このおかげで、何人かの患者が助けられています。私も、本当に合わないものをズバッと指摘していただき、それ以来、触らない、食べない、近寄らないようにしています。私は雑草のアレルギーもあるが、「土の方がはるかにきつい」とご指摘くださったのも、高崎ドクターでした。
 また、自分で食べられないと思っていたものを「大丈夫」と言ってくださり、食べてみると反応を起こさなかったこと等、いろいろあります。CSを患っている人、特に重症のCSの方にとって、なくてはならないドクターのお一人だと思っています。

■徐々に良い方向に
 実家へ帰ってきて、1年6カ月がアッという間に過ぎてしまった。実家へ帰ろうとしたときから、私は私の命を半分あきらめていた。それは、あの強い症状(ショック)を起こせば間違いなく生きていられないからだ。ここは過疎地で、どんなに急いでも病院に着くまで20分はかかる。
 それに、原因不明のショックを起こした患者は、やはりどこの医療機関へ行っても「今度はほかへ行ってくれ」と言われてしまう。まして「私はCSです。その症状がこうなのです」と言ってしまえば、「今まで診てもらっていた所へ行ってくれ。うちでは治療できない」と言って、とても恐い顔をして、ドクターは診察室から出ていってしまう。ドクターはCSという病気(?)は何となく分かっているみたいだが、そういう病気は認めないところがある。薬品を多量に吸い込んだり体に浴びたり、何らかの薬を飲んで症状が表れるのは分かっても、信じられないくらいの微量の化学物質を吸ったり触れたりしただけで体調が著しく悪化するなんて分からないし、理解できないのだ。それがほとんどの人が何回も使っている洗剤、化粧品、そのほか合成のありとあらゆる物で症状が起こるなんて認めない。本当はドクターこそ化学物質の怖さ、命あるものと同化することはないということを習っているし、専門的知識を持った職業だと思うが、一部のドクターの方々にしかCSのことを分かってもらえないのは、本当に残念なことだ。
 だいぶ元気になった今、当時のころを思うと、あの症状は何だったのかと思う。頭だけ冴えているのに、体の不調は今までにないくらい苦しく、ほとんど寝たきり状態で、この時は「死ぬまでこれが続くのか」と思い、これで私の人生が終わっても良いなと思ったほどだ。これ以上頑張れないし、眠っている間に息が止まってくれたらいいと思っていた。
 でも不思議、ショック症状は起こってこない。たぶん、この症状は汚染された空気を吸い続け、私の体が得体の知れないものを必死で追い出そうと抵抗していたのが、何も入っておなくなり、防護の力だけ緩まなかった結果だと思う。体は徐々に、とても良い方向へ向かっていった。
 苦しい症状が少し和らいだ時、母に誘われて外へ出て、庭の真ん中に立ってみた。少し大きく息を吸い込むと、ヒンヤリと冷たく澄み切った空気が体中を駆けめぐり、指先までしみ込んでいくのがハッキリと分かる。浄化されていくのだと感じた、最初のあの汚れのない空気を今もおぼえている。元気なころはなく、CSできつくなったアレルギー症状も、和らいできている。もう何年も口にしていない食べ物もそのうち食べられるようになるかもしれないと思うと、とてもうれしい。1、2年すると草、土にも反応しなくなって、自分で野菜を作れるかもしれないと思うと、夢がいっぱい膨らんでくる。少しずつ、私の人生が戻ってきているのだ。
 回復記を書かせてもらっている私ですが、今、夫の介護で消毒薬イソジン(元気だったころ好きだったにおい)を1日2回使いだし、また少し過敏性が戻ってきて、今回はこれ以上書きにくくなってきています。
(つづく)
       

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