私の化学物質過敏症のレポート No.2

 1993年春より半年間、虫歯3本を神経失活剤として亜砒酸(砒素の一種)を用いて治療をする。その年の秋、3本目の治療時に、亜砒酸が口内に漏れた事により、痙攣発作様の症状を呈する。 次の日もアルコール消毒により同様の症状が発現。(このような症状はそれまで体験したことが無いもの。また、病気らしい病気はしたことがなかった。) それからは、アルコール系のものを中心に様々な物に過敏性が出現。今まで使用していた中性洗剤、化粧水、芳香剤等、微量触ったり吸ったりするだけで 激しい後頭部の痛み、全身の硬直、瀕脈、急速な体温(特に手足)の低下を伴ない、全身が鉛のように重たく動きが緩慢となり、強烈な疲労感が残った。  「反応に出会う」という表現しか出来ない程、電光石火の衝撃が身体全身に伝わり、1,2時間の発作の後は、まるで心臓がぶら下がっている様に苦しく、 這ってしか移動できなくなり、必ずその夜は、神経が張り詰めた状態になり一睡もできない状態となる。4,5日後体調は更に悪化,湿疹等も出現してくる。 発症当時は自分の身体に起きている異変が何によるものか解らないため次々と反応を起こして一睡も出来ない状況が続き、急速に衰弱、ついに寝たきりとなった。 動こうと思っても鉛のような身体とアキレス腱などのこわばりがあり、ベッドの上に横たわっていても地に沈んでいくようなしんどさで身の置き所がなかった。 瀕脈(120/分)等がどこから来ているのかと、色々検査はしたが異常は認められなかった。この頃から、病院の消毒の匂いで具合が悪くなる事も気づき出し ていたので、その後病院には掛かっていない。
 少しでも熱いもの、刺激物(香辛料)は、負担が掛かって口に入れられない、足元に少しお湯を掛けただけで動けないほど具合が悪くなる等、ちょっとした事に、 非常に負担を感じる状況。また、数ヶ月間、毎日寝汗で苦しみ(ひどい時は一日中じわじわと汗が出ていた)、入浴出来る体力が戻るのに半年掛かった。 私自身の状態を客観的に推し量ってみたとき、自律神経のバランスが崩れてしまっていて、正しい指令が末端神経に送られないで誤動作していると思われた。 偶然、雑誌に掲載されていた記事から化学物質過敏症という病気があることを知り、自分の不思議な症状が解明される思いであった。ペンが持てるように なるのを待って、病状のレポートを作成して、北里大学病院の先生にお送りした。先生より頂けました温かいご指導のお便りが、その後の闘病の大きな支えとなった。 丁度、新築着工時であったので、床下数箇所と室内の換気扇を付け、白蟻駆除、ホルマリンを使用しない手だては施せたが、合板まではどうする事も出来なかった。 新しい家には、ほとんど寝たきり状態(発病後6カ月)のままの引越しであった。 それから10カ月後、リュウマチのような痛みが手の指の関節から始まり、股関節、腰、背骨と半年程、関節の痛みとこわばりに苦しめられた。 しかし、その症状も一過性のもので徐々に消失した。 新たな反応を避けることを心掛けていたが、思いがけない事態も発生することがあり、良くなりかけていた病状が、全身湿疹という状態にまでバックした事もあった。 現在、過敏症が発症してから、この秋で4年が経過します。その期間を大まかに分けてみます。

  寝たきり状態.............10ヶ月(揮発物質の臭いに過敏性がはっきり出る。)
  寝たり起きたり............1年(眼球や手足の関節のぎこちなさ、疲労感)
  家の中でのリハビリ.........1年(軽い家事仕事を少しずつこなす。)
  家の近くの銀行、郵便局等実験的に行動........3年目より

 発病当初、解らないなりに、生活空間から自分にとって駄目なもの、或いは駄目だろうと予測されるものはすべて徹底的に身辺から排除しました。 2年が経過した頃から、身体は元気になってきたが、まだまだ様々な香りで具合が悪くなるので人の集まるところは行けない状況と判断して家でのリハビリに励みました。 我が家に訪ねてこられる方には、香水やヘヤートニックの香りなどつけない事をお願いしました。気を付けていましたが、来訪者の付けてくる匂いで状態が急変したことも、 何度かありました。
私が、何度か重ねて経験している反応の中で、一番不思議なのは、界面活性剤、アルコール系の物に微量でも手で触れると、手に明らかな感触 (血管を伝わっていく違和感を伴った進入感)があって、同時に機械的な動悸、瀕脈、全身の違和感が発現することです。 そのメカニズムを解明、あるいは知りたいと思います。

 私の場合、亜砒酸が切っ掛けではありましたが、それまでの生活で日常的に使用していたものをまとめてみると
.....<ホワイトボードのマジック、芳香剤、防虫剤、中性洗剤等など> 正に、化学物質に囲まれた生活をしていたこと、そして、汗のかきにくい,お酒に弱い体質であったこともCSになった原因の一つだと考えています。 4年を振り返ると、本当にゆるやかに少しずつ、少しずつ快復してきたと改めて思います。 体力の快復とともに、匂いなどへの過敏性も薄らぎ、元の社会生活に少しずつ戻っています。 今でもアルコール、界面活性剤、抗菌物等に対しては、信じられないくらいの微量でも、反応を引き起こしますが、外見ではそんな体質である事は分からないくらい快復しています。 そして、最近出会った反応では、以前ほどダメージを受けることなくクリアー出来ました。 ただ、駄目な物を極力避けているので、実際は、私が反応を起こす物質への過敏性がどこまで快復しているのか、また将来的に、発病以前の体質に戻れるのかは全く未知数です。 今はいいのですが、今後、他の疾患を患ったとき薬を飲めるのか、消毒出来ないのに、手術や注射はどうすれば良いのか等の問題は残ります。 しかし、そんなハンデキャップも悪い事ばかりではありません。
CSを体験して教えられた事は、発病当初、環境への細心の気配りは必要でしたが、限界があるために、色んな意味で居直って生きる事を教えられた事と、本当の豊かさとは何か、 見失いがちな価値観を心の奥深くに刻み込めた事です。


私の化学物質過敏症のレポート No.1

 はじめまして、皆様。化学物質過敏症の実態を知っていただきたく、早速ペンをとっています。 一般的に知られていない病名で、その症状も苦しさも、なかなか理解していただけないこの病が、 1日も早く市民権を得ることができますよう心から願っております。

 私が発病いたしまして、2年が経過いたしました。歯の治療で、亜ヒ酸というヒ素の一種で ある物質に感作したのがきっかけです。半年間、その薬品を使っての治療を続けて おりましたので、私の体内の解毒能力の許容量を超えてしまったのでしょう。 ある日、歯に詰めた亜ヒ酸が口内にもれて、全身不快、けいれん発作が起きました。 それからはアルコール系統のものすべて、漢方薬、芳香剤、洗剤、強い花の香り、カレー等、 次々とけいれん発作や 脱力を起こしました。始めは、1〜2週間の発作だけで、すぐ回復した のが、重なる発作に段々体力は 吸い取られ、衰弱してゆきました。

 発作時は、後頭部が異常にキリキリと痛く、どうきが機械的に激しくなり、けいれんを伴い、 全身がバラバラになって今にも死ぬのではないかと思える状態を呈しました。 また、あるときは突然動けなくなる、息が止まってしまいそうになる等、体験しました。 発作そのものは1〜2時間で治まっても、夜は眠れなくなり、何よりも心臓がぶらさがった ように感じ、全身は鉛のように歩行困難になり、3日、4日経てからどんどん悪くなって いったり、時には、全身への湿疹が広がってゆく等、様々な症状が尾を引いて出てきました。  自律神経が、正常に働けなくなり不眠、多量の寝汗(ひどいときは1日中、汗が全身から しぼり出されてくるときもあった。)心臓の存在感と異常感、全身が鉛状態、足の裏は 鉄の骨が出ているような感じになり、特にかかとは異常感があり、頭痛はよく発生し、 湿疹は悪化してゆき、緊張と不安で心身共に極限状態へ落ち込んでゆきました。

1993年の10月に始めてのけいれん発作を経験してより4か月程の中で次々と反応を起こして 波のようになりながら、急速に衰弱してゆきました。血液検査は一切異常なく、病名のない 状態で、神経科へゆくことをすすめられました。けれども、私は、自分の状態を、毎日記録 をとり、冷静に、みつめていました。私の体内で、アルコール系の物質に極度のアレルギー が起きていると確信を持っていました。あるドクターは、症状から、アルコール恐怖症に 思えたようですが、何も知らないで、手でさわった物、食べた物、吸い込んだ物に アルコール分が入っていると必ず、激しい反応が起きましたので、気の持ち方などで、 症状が出ているのではないことを自分自身が一番認識しておりました。  白アリ駆除の消毒を2年前にした、私の実家でいたとき、とうとう、頭も自力で げられない、寝たきり状態になってしまいました。

そのような状態で、1994年のお正月を迎えましたが、丁度、ホスピタウンという 健康雑誌の新年号に掲載されていた”化学物質過敏症” の記事を 読みまして、私の病気はこれではないかと思いました。  エタノールや芳香剤、その他の化学物質の身体への悪影響が表にまとめて書かれて ありました。それらの症状は正に私の状態と一致したのです。もっと病気のことについて 知りたいと思いました。反応を起こした物質については、私の身辺には置かないようにし 、除去してゆきましたが、体のほうは波のようになりつつ1月2月とどんどん衰弱して ゆきました。口では説明しがたいしんどさでした。  私の場合、洗剤に強く反応しましたので、何が使えるのか今まで使用していたものを 検討するため、各洗剤会社に電話をして、その成分を詳しく調べ、アルコール、グリコール 等の入っていないこと、確実に安全であることを確かめたり、以前着用していた衣服で オーデコロン等のついた服や持物はすべて湯で洗い流す等、安全な環境づくりを、 家族全員の者が皆、協力して配慮してくれました。すべては私が体で感じた事が基本でした 3月、久しぶりに大学から戻ってきた娘のコートについていた、微量の香りで数秒間で けいれん発作が起きたときは、さすがに私も娘も悲しく(会話を交わすこともなく、 とにかく、そばにいることができないということで、再び帰っていった。) 何という残酷な病気なのだろうと、前途が真っ暗になる思いでした。でも一つ一つの反応は、 「気をつけないといけないこと」の学習、サインなのだと自分に言い聞かせ、娘をなぐさめ、 この点を気をつけようと励まし合いました。しかし、ドロ沼のようになった身体は ベッドから離れるメドのつかない状態が続きました。

その頃、”あなたも化学物質過敏症”というタイトルの本を、主人が本屋さんで見つけて きました。この本は、何度も繰り返しベッドの上で読みました。発生のメカニズムを理解 するのに、非常に参考になりました。  食事だけが薬でしたので、食欲がない時も一生懸命食べました。老いた親には、 本当に世話になりました。主人も私をおぶってトイレに連れていく等、私の手となり 足となってくれました。みんなのお陰で薄紙をはぐ如く、回復に向かっていきました。 一方、主人の勤務の事情で、大阪から和歌山へ引っ越すことになっており、 私がこの病で倒れた時は、新しい家の着工寸前の事でした。私の実情を話し、 少しでも安全な家づくりということで、、施工主のセキスイハウスでは、壁紙の 接着剤はホルマリンの発生しない、クリーンアミノールを使用し、白アリ駆除は ほどこさないで、床下に4〜5か所 ファンを設置し、リビングルーム、ベッドルーム にもファンをつけて、1か月程回しっぱなしにしてから入居しました。入居時には目が 痛む等は何もなく、一応やることはできるだけしたという気持ちでした。しかし、 まだ私は家事仕事も何一つできる状態ではなく、ようやくトイレは一人で歩けると いう程度での引っ越しでした。

 ペンが持てるまでに回復した時、私は、発病の時から毎日、病状を記録していたものを、 まとめてレポートをボチボチ書き始めました。やっとの思いで書き上げ、北里大学の 先生に、私の病気のご診断をお願いいたしました。ご多忙の中、先生より 暖かいご指導とご見解のお便りを頂きました時は、本当にうれしかったです。 私の病状から、化学物質過敏症であるとのご見解を伺えたことは、私にとって 大きなことで、心に一つくぎりがつきました。健康を取り戻すには、それ相当の 時間がかかること、数年は様々なことに注意して、体力をつけてゆくことを念頭に おいて生活する覚悟ができました。

 そのレポートにも書きましたが、発病当初、一体、自分の身に何が起きているのか、 まるで、SFの世界に、自分だけ突然放り込まれた様な感がありました。それまでの 社会生活は仕事を含め出来なくなり、家の空間だけが私の世界となりました。 天井だけを見てのねたきり状態から、抜け出すことができ、少しずつ考えながら リハビリをして、発病より一年が経過した頃、手袋をはめながらも、主人の為に 食事を作れるようになり、それまで共に闘ってくれた母にも、元の生活に戻って もらえるようになったときは、本当にうれしかったです。ただ、元気にはなって きていても、思いがけない物に反応したりして、状態がバックすることも度々あり、 悲しくなる時もありましたが、それらも「気をつけることの学習」 として受けとめることが何より大切だと思いました。

 食事、環境作りで気をつけたことは(発病時より心がけた)、肝臓に負担をかける ことになると思ってまず、できるだけ無農薬の野菜やお米を手に入れ、調味料は 吟味して、添加物のないものを使い、浄水器、空気清浄器も取り付けました。 また、私だけでなく、家族のものが、私と同じ石鹸、シャンプーを使用しています。 オーデコロン類は私にとって大敵なので、人の集まる所が危険な場所なのです。 ですから、今でも買い物一つできませんし、銀行、郵便局といった日常生活に 必要な所へ出入りすることはできません。もちろん、電車に乗ったり、タクシーに 乗ったり等は今の私には、とても無理なことだと思います。家へ訪れる方には必ず、 香水系の物をつけないことをお願いして、慎重にしています。  体力は幸い、回復してきましたが、現実、社会生活に参加できない実態を考えると (もしも、子供達や主人、親達に何かあっても、病院へ行くこともできない等々)、 時々落ち込むこともあるのですが、とにかくマイナスの思いはなるべく右から左へと 消し去るようにして、1日1日と思って過ごすことを心がけています。

 化学物質過敏症患者どうし互いに情報を伝えあい、励まし合うことが出来ればよいと思います。情報は本当に 大切だと思うのです。2か月程前、ある方を通じて知り合った青年も、朝日新聞に 掲載された「化学物質過敏症」という記事と出会って、自ら、直接ダラス(アメリカ) にある医療センターとコンタクトをとって、現在、そちらの病院で治療なさっています。 小さな一つの記事が彼を救ったのです。ちなみに、彼の血中からは検査の結果、 通常人の39倍という多量のジクロロベンゼン、また染料のような物質が検出された そうです。現在、治療効果があって、脳血管の異常もかなり良くなってきているそうです。  いまだ、一般病院の門をたたいても、なかなか理解されない病の実態を伝えてゆく ことが、この化学物質過敏症という病気にたまたま巡り会ってしまった私のささやかな 社会活動の一つと考えています。症状が先行して、苦しみ悩んでおられる方がきっとい らっしゃるのではないかと思います。また この病は、人類が文明社会を考えてゆく うえでのシグナルなのではないかと思っております。

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