資料シート●各科目

Muybridge
マイブリッジ、Edward
(1830-1904)

http://www.infonet.co.jp/apt/March/syllabus/bookshelf/Muybridge.html




 1867年に、フランスの医学者のMarey(マレー、Étienne-Jules)は馬の足に取りつけられる筋肉の運動の計測器と、同じ馬に積める記録器を発明した(▽図)。このシステムによって初めて、いろいろな走り方で馬を走らせた時の馬の姿勢の変化が調べられるようになった。その成果に基づいて、デューセは走っている馬が実際にはどのような姿勢になっているかを表す多くの図を描いた。この図は、1873年には合衆国でもよく知られるようになった。
 デューセが描いて見せた、ギャロップする馬の姿(▽図左)は、それまで信じられていた姿(同右)とあまりにも違っていた。そのため、デューセの絵は間違って描かれていると考える人と、正しいと考える人との間に論争が起った。
 CentralPacific社長でのちにStanford大学を興すことになるStanford(スタンフォード、Leland)は、デューセの方が正しいと考え(Mareyが書き残したもの[]によるとその逆)、反対の証拠があるなら2万5000ドルの賞金を出すと宣言した。
 その一方で、版画が正しいことを実証させるために、イギリスから移民してきたばかりで、アラスカで活躍していた写真家のMuybridge(マイブリッジ。1830-1904=偶然にもMareyと同じ。▽図)を1878年に呼び寄せた。
 Stanford は パロアルト(Palo Alto=MacOSやWindowsの原型になったStarを開発したXeroxのPalo Alto研究所がある。サンフランシスコからは20kmぐらいの所)にあった自分の農場(競馬場ともいわれているがたぶん間違い)で、Muybridgeに馬の写真を撮影させた。




Muybridge
([Gron]より)

 Muybridgeは、最初はふつうに馬が走っているのを撮ってみたが、うまくいかなかった。
 農場に直線のコースを作り、それと平行に12台(のちに24または30台)のカメラを並べた(▽図左)。そして、コースには一定の間隔で直交するように紐を張り、その先をそれぞれのカメラのスイッチにつないだ。




Muybridgeが馬を撮影した装置の全景(左)と細部

([Gron]より)

 Muybridgeは、このコースの上で馬を走らせた。馬が進んでいくたびに紐が引かれ、それによってそれぞれのカメラがちょうど正面を走って行く馬を撮るようになっていた。
 このしかけは、馬が引く台車で紐を引くように、さらに時計から電気の信号を間欠的に発生させて、その信号によってカメラを起動するように改良された。
うまが進んでいくのにを、フックをつけた車をつないだ初めは馬にじかに紐を引っ張らせようとしたが、馬は紐を怖がって走ってくれなかった。そこで、車が次々に紐を引っ張るので撮影が連続して行なわれることになる。
 

 このようにしてOccidentという馬撮影された一連の写真のうちの1枚に、全部の足が地面から離れているところがはっきり写っていた(▽図)。












Muybridgeによって撮影された馬のギャロップの連続写真

([Gron]より)

 こうして、Stanfordの問題は肯定的に証明された。これまでにStanfordは4万ドルをMuybridgeの研究に費やしていた。

 しかし、証拠を示しても、馬が足を抱え込んだ姿勢で空中に浮かんでいるという事実に抵抗を感じる人は多かった。
 そのころの欧米の美術の教育では、空中に馬が浮かんでいるとすれば両足を伸ばしているはずだと教えていた。たとえば、同じ時期のジェリコの有名な絵(▽図)にもそのような馬が描かれている。もっとも、ジェリコは馬に詳しかったので正しい姿は知っていて、敢えて違う姿を描いたらしい。




[Epsom の競馬]
テオドール-ジェリコ
(1821)

 そのころ、フランスのMeissonier(メソニエ、Jean-Lois-Ernest。1815-1891)は写真のような絵を描くことで広く尊敬を集めていた。特に馬の絵を好んで描いていた。Meissonierは、Muybridge の写真に写っている馬の姿勢が真実だと理解はしていたが、美しくは見えないと感じていた。
 Muybridgeは、写真に写っているのがありのままの馬の姿であることを、人々に自然に受け入れてもらいたいと考えた。そこで、Meissonierを訪ねて写真を見せた。Meissonierは Muybridge の写真に感心して、それらを1枚ずつ絵に描き直してくれた。
 Muybridge は、フェナキストスコープを改良して映写型のプレーヤを作り、一連のMeissonierの絵をスクリーンに映してみた。すると、確かに誰もが知っているとおりの馬が走るようすを、動く像としてスクリーンの上に見せることができた。1879年に、Muybridge はこのしくみを発表してゾーイプラキシスコープ(Zoöpraxiscope)と名づけた。

 このころからMuybridgeはStanfordとはなかが悪くなり、Stanfordのもとを離れた。
 Stanfordの問題が解決したあとも、Muybridgeは、動いている人や馬の連写の研究を続けた。そして、何冊もの連写の写真集を出版した(今でも出版されていてアニメーションの仕事をする人たちには大切な種本になっている)。
 Muybridgeは、特に撮影の間隔をできるだけ短くすることに、こだわっていた。そのためにカメラが増えていき、最初の実験では12台または24台のカメラを使うぐらいだったが、しまいには、100台以上のカメラを使って撮影するようになっていた[Gronemeyer]

 Muybridgeの結果に刺激されてEdisonはキネトスコープの研究を始め、94年に製品として発表した。また、実際の光景や俳優の演技を撮影して制作した多くのタイトルを供給した。さらに、この成功が、Lumiére兄弟のシネマトグラフ(今の映画の方式)が生まれるきっかけになった。












Muybridgeによって撮影された馬のギャロップの連続写真

([Gron]より)

 Stanford の研究の初めごろの1874年に、Muybridgeは妻の愛人を撃ち殺してしまい、殺した疑いで裁判にかけられたことがある。しかし、裁判所はこの殺人が正義に基づくものだった(笑)ことを認め、Muybrodgeを放免した[Denton]。この判決については、Muybridge が Stanford の身内だったことも影響していたかもしれない。





参照/引用させていただいた資料

Gillian Denton (project editor), et al
Eyewitness Guides
Cinema
(Dorling Kindersley Limited, 1992)

[Gron]
Andrea Gronemeyer
Film: A Concise History
(Laurence King Publishing, 99)


映像


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