資料シート●各科目

シネマトグラフ
Cinématographe
http://www.infonet.co.jp/apt/March/syllabus/bookshelf/Cinematographe.html
1894年に、フランスのLumière(リュミエール)兄弟は、パリのある
キネトスコープパーラのオーナに頼まれて、新しい方式のプレーヤを完成した。これは、フィルムの像を、
キネトスコープのように
アイカップに映す代わりに、アーク灯と水レンズを使って機械の外のスクリーンに映すようにしたもの(▽図左)だった。これなら、プレーヤを何台も買わなくても、大勢が一度に(ただし同じコンテンツの)
キネトスコープを見られるようになる。Lumière兄弟は、この新しい方式をシネマトグラフ(Cinématographe)と名づけ、それをテアトル(Theatre=劇場。▽図右)という会場で公開し始めた。
現在の映画はシネマトグラフが発展したもので、そのしくみや特性は、本質的にはほとんど変っていない。

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シネマトグラフ
プレーヤ(左)とテアトル
(資料[映像の世紀]より)
シネマトグラフの最初の興行は、パリのキャピュシーヌ通り14にあるグラン-カフェの地下のサロン-アンディアン(Salon Indian=インドの間)を会場にして行なわれた。グラン-カフェは、オペラ座とマドレーヌ寺院との中間に位置する有名なレストランで、その付近は当時のヨーロッパでも指折りの賑やかな区域だった。会期は1895年12月28日(土)からだった。
入場料は1フラン(現代のレートでは約20円)だった。ちなみに、現代のフランスでの映画の入場料は20〜30フランだ。
会場の定員は100名だったが、初日の観客は35名(30名とも)しかいなかった。しかし、会期の間に話題が広がって、それから1週間の間に延べ2500人がシネマトグラフを見に集まった。
映画はこの興行をもって誕生したとされているが、技術としてのシネマトグラフはそれ以前に完成していて、Lumièreたちは1895年02月13日には特許を取得している。また、03月22日にはパリ国立産業振興会館で学術的発表として[工場の出口]の上映の実演が行なわれた。一般公開の直前にも特別招待試写会が行なわれている。12月28日は、大幕のスクリーンによって多数の観客が同時に一つの作品を鑑賞できるようにするために、会場に観客を集め、入場料を受け取って興行を行なうという、社会的な制度としての映画が誕生した日として意義をもつ。
Lumière兄弟はもともと乾板(フィルムの前に使われていた写真の感材)のメーカを経営していたが、シネマトグラフの成功を受けてプレーヤ(シネマトグラフではカメラにもなる)とソフトウェアの生産にも乗り出していった。

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シネマトグラフのポスタ
映画の興行では先行していた合衆国については、1896年06月18日にニューヨークで最初の興行が行なわれた。
シネマトグラフの日本での最初の興行は、1897年02月15〜28日に、大阪の南地演舞場で行なわれた。夕方の05〜11時に8本のコンテンツが日替わりで上映された。
この興行は、のちに京都の実業家になる稲畑勝太郎によるもので、稲畑は、フランスに留学していて知り合ったオーギュスト-Lumière(兄の方)から、シネマトグラフを紹介されていた。
翌年には東京でも神田の川上座で興行が行なわれた。この時の入場料は8銭だった。
Lumière兄弟も、Edisonと同様に多くの独自のコンテンツを制作した。
95年12月の初日には、[リヨンのLumière工場の出口]、[荒天の海で(または海水浴)]、[赤ちゃんの言い争い]、[ラシオタ駅への列車の到着]、[カード遊びをするLumièreと軽業師トレウィー]、[塀の取壊し]が上映された。さらに、同じ時期には[金魚釣り]、[赤ちゃんの食事]、[調教場の兵士たち]、[リヨンのビュブリック通り]、[水をかけられた散水係](1895年)、[写真会議委員の上陸]、[リヨンの消防隊](1896年)、[雑草の一掃]、[岸を離れる小舟]、[雪合戦]などの作品が制作された。
これらの作品は、どれも数秒〜数十秒ぐらいの長さで、現代の映画の興行を基準に考えればごく短いクリップに過ぎなかった。これらの作品は、最初の興行までの時期に、ルイ-Lumière(弟の方)が中心になって制作された。
世界で最初の映画は、彼らの工場で撮影された[工場の出口](▽図左)だとされている。Lumièreの工場の門が開いて、そこから社員たちが出て行くようすが写されている。
この作品には、実は三つの異なるバージョンが存在する。最後に2頭の馬に引かれた馬車が通り過ぎるのが最初のバージョンで、ほかに3頭の黒い馬が通り過ぎるバージョンと馬が登場しないバージョンがあり、これらはそのあとで制作されたものと考えられている。
この作品は遅くとも1895年03月22日以前に撮影されたと考えられている。

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[工場の出口]
(資料[映像の世紀]より)
[列車の到着](▽図)は、映像による視覚と現実との違いから多くの観客を怯えさせたりふしぎがらせたりした。このことは、現実に似ていながらそれを拡張した新しい視覚を生み出す力を映画はもっていることを、人々に気づかせるきっかけになった。
ところで、この作品に登場しているのは、実はほとんどがLumièreの親族たちだ。つまりこの作品は、駅に到着した列車から人々が降りて来るのをただ撮っただけのように見えるが、実は、きちんとした計画に基づいて撮影されていたことになる。