資料シート/[Office Paradix]

演出ノート
[Little Lunch Box]

桂勘



[パラディオの回廊]プロジェクト参加中



 1996年の3月、私の舞踊団はセンアルンアートセンター(タイの舞台芸術制作集団) と国際交流基金のサポートでタイ・日の共同舞台作品を上演した。 それはアジアにおける現代舞台芸術についての研修プログラムとしてタイ、シンガポ ールと日本の様々なアーチストが参加した5カ月に及ぶ実験的な試みの一貫であった。 そのときの交流が縁でその夏、私はバンコクに拠点を置くパトラバティ・ダンスシア ターと言うカンパニーに招かれる事になった。「Kong Kao Noi」と言うイサーン地方 の民話を題材にした舞台作品の演出を依頼されのだ。 「コン・カオ・ノイ・カ・メー」、タイ人なら誰でも知っているというこの物語りは 、貧農の農夫の母殺しにまつわる悲劇と供養からなる大変シンプルな物語で、ドラマ チックな要素の少ない民話なのだが、その現代化が私のテーマであった。 私は1979年から「舞踏」という身体表現による舞台作品を創り続けてきた。「舞踏」 は元々日本の東北地方にその原風景を持っている。その原風景とは詩人の宋左近が言 うように、縄文と弥生の相剋が産み落とした優れて日本のエッセンスであり、私はア ジアの地下水脈へと連なるものであると思っている。60年代に始まったこの舞台芸 術運動は、70年代から80年代にかけて海外で注目を集め、その名も「BUTOH」と 名を変えて、ついには20世紀における日本が生んだユニークな現代芸術として欧米 に置いて日の目を見る事になるのだが、日本国内に置いてはいぜんとして異端的な肉 体表現の分野としてマイノリティの位置にある。そして私も含めておおかたの「舞踏 家」は異端であることに満足している。私は「イサーン」と聞いたときから心にうご めくものがあった。
 しかし話の内容を読む限り、私(日本人)とこの物語りを伝説にまで高めたタイ人と の落差はそう簡単には埋まりそうにも無いと思えた。 ただその年老いた母が携えていたであろう小さなランチボックスはひょうきんでいて とても美しい形をしている。このかわいい竹細工のランチボックスには何か私の知ら ない世界が詰まっていそうに思えた。7月、イサーンでのフィールドワークを開始した。 この民話は調べれば調べるほど広がり、ぼやけ、尾ひれが付き、漠然としたものにな り、実話かどうかさえ怪しくなっていく。しかし、一ヶ月が過ぎた頃、私はこの民話 の背後に何かとても大切なものが潜んでいると信じるようになって来ていた、それも タイ文化の底流を支える隠れたアイデンティティのようなものである。 フィールドワークでは、一日平均2〜3人の人々にインタビューを試み、郷土史家や 大学の研究者、そして農家に飛び込み老人の昔語りに耳を傾けた。 今回の舞台作品では、役者と観客の対話をやってみようと考えていた。それは、ステ ージにスクリーンを置きビデオプロジェクターを使って、色々な人のインタビューシ ーンを映し出し、舞台上の役者、観客、ビデオの登場人物達がインタラクティブに対 話を進めるというものだ。バンコク在住の若者やモーラムの研究者、さらにカオサン 通りの白人にもマイクを向けてみた。
 9月に入って、オーディションに残った7人のダンサーとのリハーサルが始まる。私 の特殊な振付の注文にダンサー達は戸惑いながらもしぶとくついてくる。 私は80年代の中頃から日本以外のアジアのダンサーや音楽家との共同作業に焦点を 当ててきた。それは強いハングリー精神と粘り強さ、そして集中力の持続する肉体( 例えばムエンタイのボクサーのような)が日本では見あたらないからだ。今の日本の 社会にはそんな若者を生み出す力はない。オーディションで見いだしたダンサーや役 者にはそれがあった。加えてパトラバティシアターの裏方や制作スタッフが、これまたよく働いた。そしてなにより主催者には観客や次の世代に対する夢と情熱を強 く感じさせられた。
 リハーサルもたけなわの10月、本番を一ヶ月後に控えた頃、私の中の高揚を押さえ ながら外国人である私がここタイでできることを再チェックしてみた。

(1) 変に啓蒙的で直接的な社会批判めいたニュアンスを持たず、あくまでニュートラ ルな視点を失わないこと。
(2) この作品を通して、芝居でもないダンスでもない「BUTOH」を体験してもらうこと。
(3) 全ての関係者とともにアジアに置いて「コンテンポラリー」とは何かを考えながら 作品づくりを進めること。

 公演はバンコクで11月に9日間、タイ北部のランパーンフェスティバルで野外ステ ージ、コラートの産業技術大学、そしてスリンで行なわれた。12月に入ってからも追加 公演が行なわれ、多くの観客の心を捉えることができたと確信している。その理由は公演後にもたれた質問会が熱気に溢れたものであったし、時に年配の観客が語り出す作品への印象には、制作側の誰も気づかなかったイサーンに対する深い思いや体験談が飛び出し、私たちの舞台の質が一ステージごとに高まっていくのを目のあたりにしたからだ。また地方公演の野外に置いては何千人と言う観客が、水を打ったように静まりかえったかと思うと次の瞬間思わず起きる大きな拍手や手拍子、そのタイミングは 、決して儀礼的なものでは無かった。スリンでは会場が笑いで満たされ、「子どもたちの目の輝きが忘れられない」とダンサー自身が同じように目を輝かせていたのが印象的 だった。
 私たちは大いに満足した、悪戦苦闘の連続だった日本側のデザイナーやタイ側の技術 スタッフも舞台の持つ魔力に癒されていた。 生の演劇や舞踊には、不思議な力が宿っている。特に現代舞台芸術は過去と未来をつ なぎ合わせ、我々に様々な「可能性のドラマ」を見せてくれる。それは確かに虚構で はあるが、又、真実でもあるのだ。
 舞台芸術は、TVや映画のようなビジネスにはとうていなりようが無いものだ。しか しながら極めて総合芸術であるため、その国や民族の持つ「真の力」つまり「文化力 」を確実に反映していると言える。だから質の高い舞台芸術の育つ国は、世界に置い て「尊敬」の冠を与えられると言っても過言ではない。個人的には一ダンサーとして 貴重な発見をさせてもらった。
 今後も様々な形でタイの舞台芸術との交流を深めていきたいと望んでいる。

1997-01-26
バンコクにて



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