資料シート/[Office Paradix]

アジア舞台芸術家交流/研修事業
ルシフェル-プロジェクト

桂勘



[パラディオの回廊]プロジェクト参加中



 芸術分野での国際共同製作というのは近年そう珍しいことではない。しかし、日本 ・タイ・シンガポールの舞台芸術に関わるアーティストが延べ5カ月にも渡って様々 なワークショップを重ねたというこのプロジェクトは、従来のような完成作品づくり ではなく、共同作業による実験・研修という制作過程のコミュニケーションに重点を おいたユニークな試みだ。アジアとの共同制作を何度も経験し、今回、芸術監督をつ とめた舞踏家の桂勘さんにお話を聞いた。

●桂さんがアジアとの共同制作にこだわってきた理由はどんなところにあるのですか。

 80年のインドネシア公演をきっかけに、何度も足を運んでいるうちに是非、現地の 人と何かやってみたいと思うようになった。それは彼らとの間でエネルギーのギャッ プを感じないからです。僕が属する舞踏というジャンルは、ある意味で日本の60-70 年代という時代が作りあげたひとつの大きなエネルギーがないと実現できないものだ と思っているんです。でも、今の日本の若い人たちにはそういうエネルギーを期待する ことは不可能だし、そんなエネルギーのない人がやるパフォーマンスとかダンスにあま り興味がない。つまり3K(キツイ、キタナイ、キケン)が嫌いな若者に舞踏はできま せんね、ということ。そういう意味では海外に労働力を求める日本企業に似ているかも しれないけれど、キツイことできる人を探そうと思うと、やっぱり日本人じゃないなと。 だからタイムトンネルを通ってエネルギーのある人たちと自分の求めている舞踏をやり 続けたい、という意味あいは凄くあります。お互いにわかり合えるまでには時間も忍耐 も必要ですが、逆に勉強することが沢山あるし、作っていてやっぱり楽しい。

●アジアのアーティストとの意識の違いのようなものは感じますか。

 現代芸術の「時代性」ということの意味や感性にズレがある。遅れいているとは言 いたくない。現代性の意識は、それぞれの国の歴史とか風土、伝統に根ざした方向に 変化していくものだから、他のアジアの国が日本と同じ方向をたどるとは限らない。 ニュー・トラディショナルとかよく言いますが、伝統をどう現代と結びつけるかとい うのは、相変わらず大きなテーマですね。西洋の文明が押し寄せて来たとき、自分た ちのアイデンティティを確保するために大急ぎで作った伝統の壁は、本当はもっとゆ っくり作った方がよかった。一気にギアチェンジして、それまでの文化をばっさり切 ってきたプロセスみたいなものが、多かれ少なかれアジア人の抱える問題で、大急ぎ で作った薄っぺらの伝統が、さも凄い伝統の壁であるように宣伝されたりする。それ を疑わずに薄っぺらな伝統の上にたった現代芸術というのは、たぶん、非常に壊れや すい。何が本当の伝統で何がまがいものかをしっかりと確かめて、確固たる自分のア イデンティティと伝統を結びつけるところから現代を見る視点をちゃんと見極めてお かなきゃいけない。  インドネシアのガムランや日本の雅楽も含めて、アジアと西洋の演奏形態は非常に 違うと思うんですね。決められたリズムとか楽譜がきちっとある訳じゃなくて、中心 が4つか5つ位あって、リーダーシップのシフトが自由に起こる。近代の西洋音楽の ように、ひとりのコンダクターが完全に統一するという指示の仕方も人を感動させま すが、西洋の人が聞いたら雑音と思うようないろんな音が入ってきたり、コンダクタ ーが何人もいて、それが上手く機能することで起きる非常に大きなダイナミズム、多 中心が全体を共振して大きなうねりになる。これが特徴的なアジアの形態ではないか と思います。

●アジアとの共同制作にとって、どんな課題があると思いますか。

 今回の共同制作の場でも、声が大きいとか、妙に説得力があるというようなプレゼ ンテーションの仕方が最終的に効果を発揮するという様なところがあって、そういう 方法でいいのか、それが価値なのか、という問題になる。僕も昔は声が大きかったん です(笑)。全部自分が仕切ってね。インドネシアの人とやった時も、時間を決めて 「ああして、こうして、明日はこうします。」って言わないとそうならないし、言っ たところでそうならない。ビジネスの世界では作る製品が明確だけど、明確ではない ものを作る時に、製品化するためのスケジュールをどんどん決め込んでいっても、結 果として出来たものは従来の製品とそんなに変わらない。私のつき合ったインドネシ アのアーティスト達は、メディテーションというか内省の時間みたいなものがあって 、「ああ、陽が暮れたからぼつぼつ何かしましょうか」みたいな感じで、もう非常に 時間がかかりますよ。問題は、そこまで待てるかということ。結果的に、彼らの歴史 と時間の中で、非常に驚かされるようなものが時に出てくる。英語があんまり上手じ ゃない人の方が、そういう驚きを与えてくれる可能性が高かったりする。でもプロジ ェクトを組む場合、時間的な制限はもちろん、人に見せるならある程度作品化しなき ゃいけないという強迫観念がある。そういう現実とどう折り合いをつけていくかは今 後の課題です。個々が自ら考える勇気、刺激を与えることができるような自立的なも のを持って、関係する全ての人が強迫観念から離れて、リラックスした中でコミュニ ケーションづくりをしていけるのが理想ですね。

●桂さんにはご出身でもある京都を拠点に活動されていますが、あえて東京ではなく 京都というのは、先ほどおっしゃった伝統の捉え方の表れなのでしょうか。

 確かに東京は情報量が多い、東京は受動的にものを集めるのに非常に優れた都 市だと思うんですよ。つまり、受け身になりやすい。しかしながら東京でそれが実際 に生産されているかというと、どうも疑わしい。だったら、ニューヨークやパリに直 接行って自分で仕入れて、それを京都でこつこつ解体して消化すればいいんじゃなか と思う。  京都人ってファッションでもそうだけど、自己完結している人が多くて、まあ、見 方によってはその分だけ保守的で頑固で、新しいものを軽々しく受け入れない。京都 で何か新しいものを始めようとする人は殆どサポートが受けられない。自分でこつこ つやり続けるしかない。したがって京都で伸びる人は、恐らく世界に通用するであろ うと(笑)。まあ、京都は人間サイズの街で、そういう意味ではものを作りやすいし 、自然とか美意識とかいろいろなエネルギーが集中して結実した日本のエッセンスで あるとはいえる。だから、ここでゆっくりものを作るということは非常に大事かなと 、オリジナルなものを発信していくための一つの大きな基地だろうなとは思います。

●今後の舞踏家としての活動の指針を聞かせて下さい。やはり、アジアは大きなテー マとなってゆくのですか。

 ダンサーは自分の肉体を見つめることがひとつの出発点にあって、つまり(自分の 皮膚を指さして)このコスチュームは何でしょう?っていうのが僕の大きなテーマの ひとつなんですね。たまたま男のようなコスチュームを着ているけれども本当にそう なんでしょうか?っていう問いかけがあって、で、これはどう見ても西洋の形態のコ スチュームではないと。それには本質的には意味があるんでしょう。僕は「アジアの 身体性」と呼んでいますが、この「アジアの身体性」から発想する新しい表現形態を 考えていきたい。西洋的に、合理的に考える習慣がついてしまった頭ではなくて、身 体表現、伝統的身体というところから発想するようなもの。  それと、今まではアジアの地理的な地域に限定して考えていましたが、ヨーロッパ も含めて、アジアの影響を受けてアジア的要素のある地域は沢山ある。そういう意味 で、地理的なものに左右されずに、「アジアの身体性」をキーワードに共同作業を続 けていきたい。その共同作業のあり方というのが、さっきも言ったように、いかに個 を深めつつ、多中心で、共振しながらダイナミックな作品を生み落としていけるかど うかであって、その理想的なコミュニケーションのあり方が課題ですね。 ここまでがインタビュー記事です。  さて、私が、「理論」としての亜細亜戦略から「体験」としての「アジアの身体性」を、肉 体が感受し、肉体が考え始めるまで15年くらいの期間が経ってしまいました。これ は個人差の問題で、私のグループ「サルタンバンク」の中には最初からすでに肉体が そのように考える事の出来るダンサーも居ましたし、一生そうはならないだろうな、 と言うダンサーも居ます。  舞踏はアートフォームだと思います。それは一人の芸術家によって徐々に形作られて きたユニークなスタイルでした。その最初の発火点が大野一雄の肉体にあり、またそ のスタイルを最も継承しているのが、大野慶人と言う舞踏家だと思います。それ以外 は総て亜流もしくは歌舞伎や能、地唄舞の手法、あるいはドイツ表現主義的なアイデ アとの混交、発展として展開されてきていると思います。 舞踏は「個」を掘り下げるツールとして絶好のメディアです。何しろ「技術」らしき モノが確立しにくい為だれも教えられない、一から自分の肉体のリアリティーと相談 するしかない。だからその公演は「最悪」が沢山あるし「最高」にも出会うこともあ ります。つまりダンス技術のシステムを持つダンスは、ダンサーがその技術をまじめ にやりさえしたら、面白くなくても「最悪」は避けることが出来ます、それが技術と いうモノだからです。しかし舞踏は「パフォーマンスアート」も含めて肉体表現の「 技術」を見せるモノからはほど遠いところに「意味」が有るわけですから(もちろん 舞踏以外もそうですが)「最悪」が多くて当たり前、と考えればもう少しリラックス して舞踏を見ることが出来るのではないでしょうか?本題にもどりましょう。私の活 動に置いて'90年代はインドネシアのアーティストと3回、韓国と2回、シンガポー ルと1回、そしてタイと2回共同作品づくりをしてきました。ほとんど毎年出かけて いっては3〜4ヶ月集中した共同作品に没頭しました。そして今は逆にタイに引っ越 して、現地生産を開始したところです、これからはたまに必要が有れば日本にも寄る ことがあると思います。  私には一つの想いがあります、それをかりに「Y」とします。「Y」の着想がいよい よ確信を持って具体的行動にまで高まるに至ったのは、私がその共同作品づくりの課 程で少しズルをして、あるいは意図的にこれぞ日本的なる「舞踏」と思った作品を創 ったとき、以外にもその作品は現地の観客はもとよりそれを踊るその国のダンサーの 肉体に取り憑き、彼の地の地神と血合してしまうのです。もう少しわかりやすく言う と私が日本的すぎるかなと思って創った形態や動きが、タイならタイのダンサーやそ の観客にとってそれは今まで彼らの古い伝統や習慣の中に置き去りにしてきた先祖と の再会であったり、自分たちが無意識に捨て去ってしまった「X」である。そしてそ のときその観客が見ているモノはそのダンサーの背後にある風土だったりするわけで す。この発見は私を驚喜させました、思わずして万馬券を買っていたあのぞくっと背 筋が震えるような感覚、あるいは「舞踏菌」の純粋培養に成功する技術を偶然発見し た興奮(解ります?)。[アジアと舞踏の関係性]というテーマは巨大なテーマです が、少なくとも欧米の精神風土では私の「Y」は、「X」を掘り下げるに適して居ま せん、まあ「水」が悪いとでも言っておきましょうか、汚染された産湯では私が思う ところの「舞踏」は育たないでしょう。




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