[月虹舎]


(イメージ)

貧乏な地方劇団のための演劇講座
第2章
政治学入門
森島永年


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http://www.infonet.co.jp/apt/March/Aki/Binbou/02.html



 人と人とが集まって劇団を組織し舞台を作り上げていく、というのはとても生臭いことだと思う。当然劇団の運営には人と人との力学が働いてくる。また、劇団を長くやっていると、恋愛騒ぎも結構あるのだが[月虹舎]では劇団が出来てから劇団内で結婚したカップルは一組もいない。それだけ、魅力的な相手がいないのか、お互いが知りすぎて駄目なのか分からないが、普通は男女が多くいる劇団ならば劇団内で結婚というのはそんなに珍しくはないだろう。
 この章では恋愛についてはなるべく簡単に触れて、劇団の組織とその役割、対外的な対応などについて述べるつもりでいる。




02-01
再び演劇をやる目的


 第一章と同じ主題から入るが今度は少しニュアンスが違う。個人個人の演劇をやる目的を「人と集まり出会う」こと、「人に自分の表現を見てもらう」こと、あるいは「自分を発見する」ことという三つに大別するとして自分はどれなのかを確認してもらいたい。もちろん、この三つのいずれとも違うこともあるだろうが、今まで劇団員が「演劇をやりたいんです」と言って入ってくる目的は、この三つぐらいだったと思う。
 「人と出会い、集うこと」を目的としている場合は友達・彼氏・彼女を求めてくる場合であり、実の所最初からこの目的で劇団へ入ってくる人は珍しい。こういう目的のためなら世間にはもっと適したサークルがゴロゴロしているからであり、特に芝居などという特殊な趣味をやろうというサークルにこういう期待をかける人間自体がかなり特殊だと言った方がいいだろう。本当にたまに「彼氏・彼女」だけが目的で劇団に入ってくる人がいる。実はこの目的はなかなか達成しないことが多い。劇団がアクティブに活動していると、外部で思っている以上に禁欲的なムードが漂う。公演直前にイチャイチャしていたらピリピリしている他の劇団員を刺激して、結局退団ということになるし、練習が始まっているのに、女の子を口説いて回っていたら、馬鹿扱いされるのがオチだ。
 結果として、「人と出会い、集うこと」が目的となるケースはよくある。演劇は特殊な趣味だし、地方の劇団の芝居など見ている客も多くないので、過去の芝居の話などは、自然と劇団員同志でしか会話が成立しなくなるのだ。「さあこの次はどんな芝居をやろうか」という、一番楽しい話は劇団員同志でしか出来ない、最高に楽しい会話である。
 「自分の表現を見てもらうこと」を目的として入ってくるのは、社会生活に対するフラストレーションが溜まっているか、ナルシストである場合かのどちらかであり、たいていは両方が混在している。演劇をやりたいという約九割が役者志望であろうから、本来はこのタイプが一番多いはずなのだが、実際に劇団員が入ってくる時にこういって入ってくることはあまりない。
 「自分を発見すること」は「自分を変えてみたくて」というのと同じことだと考えていい。「自分を変える」ためには「自分を知る」必要があるからだ。このタイプはスタッフ志望に多く、最近は女の子にこの傾向が見られる。
 なぜわざわざ第一章と同じ話を持ち出したかというと、主催者の目的、または構成メンバーの目的によって劇団全体の方向が決まっていくからだ。
 「人と出会い集うこと」を目的としているのなら、合宿や合同リクリェーションの多い、いわゆるサークル活動化していくだろうし、「人に自分の表現を見てもらう」ためには舞台は華美に、上演作品は客の反応を確認しゃすい喜劇の上演が多くなっていくだろう。「自分を発見しよう」などというややこしいことを考えていれば、芝居もややこしくなるだろうから、客受けは良くない。
 各個人が演劇をやることにどういう期待を持っているか、によって、また、それにどう答えようとするかによって、劇団の活動の方向性や、劇団としての目的が決まってくる。第一章で言う劇団の目的が、あれもやりたいこれもやりたいという演劇の可能性に対する道しるべを定めるためのものだとすれば、この章で言う目的とは劇団員が芝居を通してどう生きていくのかという問題とかかわっている。
 劇団内部の問題として、劇団をどの方向で運営していくのかは時々考える必要がある。サークル化していくと劇団の戦闘力は衰える。芝居を華美にしていけば、主役とそうでない役者との差を作る芝居づくりに陥る危険性があるし、劇団活動も長時間化して仕事や学業への影響も考えられる。自分を発見しようなどというややこしいことを考えると前衛的になり、客や役者に見捨てられることもあり得る。こういう別々の目的を持った個人の集合体である劇団の目的は力バランスによって、自然に決まってくる。そして意外に自分たちではどういう目的の劇団なのかが見えなくなって惰性で動いてしまうことも多いようだ。


02-02
劇団


 演劇は劇団という組織がなくても成立する。十五年以上昔から、プロデュース公演というのが一般的になってきており、全国的に自治体や企業が絡んだプロデュース公演が年々盛んになってきている。
 しかし、継続的に方向性を持った演劇活動をしていこうと考えると、劇団というのはかなり便利な組織といえる。つまり、自分たちで何かを作り上げていこうとするときのベーシックな力はプロデュース公演では蓄積されていかないのだ。プロデュースで集められるのは力を持った個人個人であって、養成という作業にむいていないのではないか。無名の役者、無名の演出家の劇団公演は存在しても、無名の新人ばかりのプロデュース公演は、役者をやろうとする人間を集めることすら難しいのではないだろうか。
 ましてや、地方の演劇ともなれば、著名な作家、著名な演出家がかかわるか、水戸ACM(水戸芸術館)のような著名な組織が冠にならないと役者は集まらない。また、役者が集まったとして、客が来るだろうか。
 さて[月虹舎]の場合はかなりゆるやかな劇団制を取っている。結成初期から他劇団との掛け持ちをしている人間は何人もいたし、茨城大学の演研と掛け持ちしている人間も何人かいた。この中には[月虹舎]がメインになってしまったメンバーが多い(所属している劇団が活動を止めてしまった場合もある。)[月虹舎]の公演は年二回程度であり、仕事の忙しいメンバーは公演当日本番が始まってからしかこれなかったり、出演できなかったりするのだが、たくさん出演したいメンバーにとっては年二回のペースでは少ないらしい。これは他の劇団でも同じことだし、他の劇団で思うような役が回ってこない役者や、もっと変わったことをしたい役者が[月虹舎]へ遊びにやってくるのだ。こういうとき、[月虹舎]のように劇団員がいつ入ったのか、いつ止めたのかよく分からない劇団は便利で、いつのまにか劇団員となって芝居をしていたのが、おや姿が見えなくなったなと思っていると、二三年してまた舞台に復帰しているというかなりフレキシブルな体制となっている。このため、[月虹舎]には、「えっ」という人間が役者で出ていたり、スタッフをやっていたりする。水戸の演劇関係者では、大貫真司が役者で出たことがあるというと意外だろう。
 こういう体制を維持していくのは簡単なようでいて実はかなりしんどい。誰が抜けたとしても、核となっているメンバーが自由な発想で対応できなければならないし、経済的なトラブルをさけるためには入場料収入で公演が賄えるように劇団運営をしなければならない。誰が劇団に来ても、「とにかくやってみれば」と言うためには、核のメンバーが脇に回っても芝居を成功させようという度量の広さと、演技をフォローできる力がなくてはいけない。まあ、実際の活動では全部が全部うまくいっているわけではなくて、つい「あとから入ってきたくせに」とか「うちのやり方はこうなんだ」と言ってしまうことが多いが、ただ見学にきただけの人間が結構好き勝手な意見を言っても許してしまう体質があることは確かだ。
 こういう体質になれているためか、今静岡で他の劇団の練習を見ていてもつズケズケといってしまい、随分と嫌われている。こちらとしては忌憚のない意見を言っているつもりであり、アンケートでは書かれない批判の部分を言っているつもりなのだが、批判されたり、叩かれたりすることに慣れていないのだろうか。もっとも[月虹舎]がこの間久しぶりにアンケートを取ってみたら、なかなか厳しいことを書く人間が増えていた。水戸では着実に観客の質も向上していると思う。
 こういうフレキシブルな体制は劇団としての力がやや弱くなる面があるが、いくつかの劇団のある町では接着剤としての機能も持っている。ただ基本的な、底力がないとこういう体制は組めないので、結成当初はまず自分たちの場を固めることが大切だろう。
 劇団とは個人の物ではなく参加しているメンバー全員の物である。どうしても意見が合わなくなったり、他にやりたい芝居があるときなどは、劇団の中に、さらに劇団を造るという方法もある。[月虹舎]の周囲には「山本孝和演劇事務所」、劇団[三月劇場/土浦]などいくつかの分枝的な団体があって、[月虹舎]とはまた違った芝居の上演をしている。これらの劇団はさらにそれぞれが外部の劇団とのコネクションをもっており、[月虹舎]を母体とした、対立的な関係([山本孝和演劇事務所]とは最近ごちゃごちゃともめているらしい。個性の強い人間同志の作業なのでこういうことがあるのもある意味では当然のことなのだろう)も含めて有機的な組織が形成されている。
 劇団という組織で大切なのは、劇の創造という作業に向いている組織であること、またある程度続けることが可能な組織であることである。


02-03
劇団の組織


 劇団の組織といっても、アマチュアレベルでは代表と会計がいるくらいであとはみんな同列だろう。[月虹舎]でも、代表と会計が決まっているだけで、他は決まっていない。代表は所健一がずっとやっていてくれている。
 アマチュア劇団の代表というのは苦労が多く報われることは公演の最後のあいさつで「座長、所健一」と呼ばれる時ぐらいだ。劇団員はみんなわがままで、困った時しか代表を立てようとしないし、年上の口うるさい連中がゴロゴロしている(特に著者はうるさい)。こういう劇団の代表は、人望があり、面倒見がよく、細かいところに気がつく人間が向いている。
 あれもやりたい、これもやりたいタイプや、威張りたいタイプ、性格に裏表のあるタイプは長い間にはぼろが出たり、無理が出るので脇に回っていたほうが良い。年上だから、押しがきくから、頭が良いからというのは代表を選ぶときの重要な要素とはならない。所健一が代表となったのは二十代の後半だったが、その時の[月虹舎]には三十歳以上の人間が何人もいたし、大阪大学の大学院を首席で卒業した人間や、芝居を長いことやってきた人間もいたのだ。
 いろいろな劇団を見ていると、代表は選ばれるべくして選ばれているようだが、たまになぜこういう人間が代表なのだろう、なぜこういう人間を選ぶのだろうという劇団がある。代表は劇団の顔なのだから、良い人間を選びたい。
 会計については一章でその仕事の内容を説明してある。職務を的確に遂行できて、使い込みの心配のない人間を選ぶべきであろう。


02-04
他劇団との関係


 他の劇団との関係は難しい。
 仲が良すぎると、なぜ劇団が二つあるのか分からなくなるし、かといって仲が悪いのも困る。お互いに刺激しあう関係がいいのだが、刺激が強いと悪口の言い合いになる可能性もあり、まあ、仲が悪いよりは良い方がいいとしか言いようがない。
 大切なのは出来るだけ他の劇団の芝居を観にいくこと。一番動きの良い劇団ほど、マメに他劇団の芝居を観ている。芝居はとにかく観にいかなくては批判も何も出来ない。観た芝居がつまらなかったら、なぜつまらないかを考え、どうしたら面白くなるかを考えてみる。出来れば、その劇団の人間と話をしてみるといいだろう。「あそこはつまらないから」とか「なんであんな芝居をやるんだ」なんてのは、批判でも何でもなくてただの悪口にすぎない。「わたしはああいう芝居は嫌い」、というのも単なる印象批判であり、なぜ好きかなぜ嫌いかを明確にしておくことも時には必要だ。自己分析していくとあまりに強烈に自分の生き方や、価値観とぶつかっているからという場合もある。口に甘いものだけを食べていたのでは表現者にはなれない。
 褒め殺しもうまくない。よく褒めてくれる人で、結局はこちらをけなしている場合がある。あるいは、「わたしの所は力がないから」といって話から逃げ出す相手もいる。こういう劇団は残念だが相手にしない方がいいかもしれない。一生懸命しゃべっている自分が馬鹿に思えてくる。
 本当は、どんな時でもどんな相手にも、誠意をもって対応するのがいいのだろうが、時に毒もないと人生はつまらない。
 私自身は少しお節介なくらいに他劇団とかかわろうとする傾向がある。一寸私に声をかけたばっかりに、しまいには「おっさん、あとは自分たちでやるからいいよ」と叫び出したくなった気の毒な学生劇団は一つや二つではないだろう。


02-05
お手伝い


 演劇をやるということは他人に迷惑を掛けることだと思っている。一番の被害者は一寸手伝ってくれと頼まれた人たちかもしれない。
 こういう人たちに、ギャラや物品でお礼をするのは失礼なことだと思っている。つまり、劇団員とどこかで差別していることになるし、そんな経費があるのなら、芝居に金を掛けて、手伝ってくれた人が、この芝居にかかわれて良かったと思える感動的な芝居を作るべきである。これは一般常識と少し外れた考え方なので、実際に実行するときには、あらかじめ相手にはギャラは出ないと言ってから、参加してもらう必要があるかもしれない。逆に最低しなければならないことは招待券をだすこと、せっかくかかわってくれた人に芝居を観てもらえなければ何にもならない。
 世の中には信じられない劇団がいくつもあって、ある劇団の照明の手伝いをしたときには、芝居が終わって最後にこっちが一人でこつこつと後片付けをしているのに、みんな帰ってしまったとか、劇場(テント)の組み立てに一日付き合って、しっかり入場料を取られたとか、冗談話としか思えないような事実をいくつも体験している。
 そうかと思うと、手伝いのお礼にと煎餅を持ってきたり、ビール券を持ってきたりする劇団もあり、こういう劇団に対してはこちらを人足としてしか考えていないのかな、と思えて淋しくなる(煎餅は断って、ビール券はもらいましたけれど)。
 手伝いにいくほうとしては、それなりに楽しませてくれたら良いわけで、(きわめて個人的な考え方ではあるけれど)気を使われたりするのはかえって困ることが多い。
 かといって、こっちが作業をしているときにその劇団の人間だけでこちらに声も懸けずに飯を食いにいってしまい、こっちは中断して食事にいったらいいものやら、悪いのやら分からないほど気を使われないのも困る。
 手伝ってくれた人に一番返さなければならないのは、手伝ってもらった芝居がうまくいって、芝居にかかわれて良かったという満足感ではなかろうか。


02-06
自治体とのかかわり合い方


 地方自治体とのかかわり方は各劇団の性格、代表者の性格が出る。[月虹舎]の場合、森島が代表だったときは自治体とは喧嘩腰で接していたし、現在の代表のは物腰のやわらかい対応をしている。
 [月虹舎]のようにテントを張ったりする劇団は、特に自治体とのトラブルが多い。初期の頃は自治体とのトラブルをさけるために民有地を借りて公演していたが、芝居が大きくなるにつれて、民有地では上演が不可能となり、市有地での公演が多くなっている。幸い、水戸市は今までテントを貼ることに好意的であったため、平成四年まではほとんどトラブルらしいトラブルは発生していない。しかし、平成五年からはグリーンフェスティバルとかが開かれることになったため、今後の公演でもこれまでと同じようにテントが張れるかということになると、全くメドが立たない状態だ。水戸芸術館の中庭にでも立てようかという話も持ち上がっているが、相手が許可を出さないかもしれない。
 正直言うとこういう場合は喧嘩をする覚悟で渡り合わないと駄目だと思っている。喧嘩をするということはお互いの立場をはっきりとさせ、最善の策に歩み寄る手段である。演劇の練習は日常の練習をそのまま舞台に掛けられるというものではなく、公演一ヵ月前にはほとんど毎日の練習が必要となる。特に[月虹舎]のように、新作を多く上演する劇団は作品のあがってくるのが公演一ヵ月前ということがよくあるので、練習場を毎日使えないと練習不足で最低の公演となってしまう。練習場確保のために市と渡り合ったことは何度もあって、それでも週に二回とか一回しか同じ練習場を確保できないでいる。(部屋はいっぱい空いているというのに)
 自治体はとかく事なかれ主義なので、正面から劇団の立場を主張すること。ただし、ただ叫んでいるだけでは、味方もつかないので、社会福祉の関係者にチケットを寄付するとか、市の組合にチケットを送るとかして、味方を増やす努力をすること。あるいは自治体の企画に参加することもいいかもしれない。そのうえで、言いたいことははっきり言う、要求もしっかりだす、こういうポリシーのある劇団の姿勢が望まれる。
 ただ、市の企画があるからやらせていただく。公民館を使わせていただく。という考え方は止めてもらいたい。演劇祭に参加すること一つをとっても、どういう形の演劇祭にしたいのかビジョンを持って相手に対応しないとビジョンで負けてしまう。
 良いものを創るには、こんな努力も必要となってくるのだ。


02-07
恋愛問題


 男と女がいるのだからあって当然。
 でも、芝居を創り始めると劇団内で付き合っている場合には男女間の関係はあまりうまくいかなくなってしまう。これは劇団の体質もあるのだろう。[月虹舎]では長続きしたことがない。特に、芝居を創っていないときは練習も会合ももたないという劇団制度なので、芝居の稽古にかこつけてデートもできない。芝居を創り始めれば、稽古日にデートしていて二人して遅れたりすると袋叩きものになる。こういう体質がいいのか悪いのかはわからないが、だからといって劇団員が結婚しないわけではない。それなりの歳になれば外部の人間と結婚している。
 人間の一番根源的な問題なので、あまりとやかくは言えないのだが本番に影響のでる恋愛だけはやめてほしいものだ。公演の前日に喧嘩して本番に穴を空けるとか、一週間前に中絶するなどはとても迷惑なことだ。


02-08
金銭問題/宗教問題


 劇団内で金銭のトラブルは避けたい。好きなことをやっている人間が集まって好きなことをしているのだから、金儲けを持ち込まれると劇団員全員が迷惑する。
 これは宗教も同じこと。劇団に宗教は持ち込まない。宗教色の濃い芝居をやりたいときは最初から宗教団体内部に劇団を創ること。信仰は個人の自由であるが、劇団内に信仰を持ち込まれると、お互いの関係がぎすぎすする。一人がモルモン教で、もう一人が天理教、もう一人が創価学会で、もう一人は共産党、もう一人が統一教会で、あとの一人がイスラム教などという劇団に誰が入りたいと思うだろうか。今までの経験では芝居関係者で比較的多いのは今光経と創価学会だ。まあ、選挙の時に「投票する人が決まっていなければ、〇〇先生をお願いします」という電話が掛かってくるぐらいですんでいる。




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