音楽やスピーチは、ただのオーディオとしてPCMなどで表現することもできるし、それぞれMIDIメッセージやSpeechManager形式で表現することもできる。この二つの違いは、同じ内容を別の形式で表現しているだけのようにも思えるが、実は、表現の形式が違うだけではなく、表現されている内容もそもそも違っている。
オーディオは、その音楽やスピーチがどう聞こえるかを表現している。表現のこのような内容を
官能的情報という。これに対して、MIDIメッセージやSpeechManager形式で表現されているのは、どんな内容の曲をどう演奏するか、どんな内容の文章をどう発声するかだ。このような内容を
意味的情報という。
意味的情報と官能的情報との対応は、音だけではなく、スチルやビデオなど、ほかの形式の情報でも見つけることができる。
情報が官能的か意味的かというのは
相対的な問題だ。ある表現が官能的か意味的かは、比べるほかの表現によって違う。
意味的情報と官能的情報とは、互いをある程度は導き出せる関係にある。意味的情報から官能的情報を導き出す(楽譜を演奏する)ことを
レンダリング(rendering、本来の意味は予想図を描くこと)といい、官能的情報から意味的情報を導き出す(録音から楽譜を起こす)ことを
認識(recognition。心理学では認知)という(▽図)。一般に、レンダリングに比べると認識はずっと難しい。
記録/通信を再生して見たり聞いたりできるようにするためには、官能的情報だろうが意味的情報だろうが、そこから視覚や聴覚を導き出すことが必要になる。この意味で、意味的情報はいつかどこかで必ずレンダリングされなければならない。
意味的情報には官能的情報を構成するのに必要な情報がすべて含まれているとは限らない。だから、不足をいろんな仮定で補ってレンダリングは行なわれる。そのため、同じ意味的情報からの導出であっても、いつも同じ官能的情報が得られるとは限らない。音源によって同じSMFでも違う演奏になるのは、本質的にはこのことの現われだ。
このことは、裏返せば、意味的情報からは、レンダリングの時につけ加える仮定によっていろんな官能的情報が導き出せるということでもある。たとえば、レンダリングして絵になってしまったティーポットの向こう側はもう見ることができないが、VRMLなどで書かれたもとの情報があれば、いつでも(時間がかかるかもしれないが)向こう側をレンダリングできる。
この意味で、意味的傾向が強いほど、その情報は
生きていると言ってもいいだろう(文献
[生きている情報と死んだ情報])。たとえば、ウェブの見出しがレタリングのGIFになっていることがよくあるが、このような見出しは活性が低い。なぜなら、翻訳システムを使っている海外の読者や、読み上げシステムを使っている目の見えない読者にとっては、このような情報は、そこにないのと同じだからだ。
なお、レンダリングということばは、その本来の意味(予想図を描くこと)から、視覚にかかわる情報について使われることが多い。聴覚にかかわる情報については、代わりに
トラックダウン(tracking down)ということばも使われる。