リーフ

公演記録/[カロル]制作委員会

75-10
森から井戸へ
([カロルまたの名を屈従のばらあど]の情宣に関する確認)



 16日夜、スライドはまだこない。
 赤テントのはストーリー芝居ではない。したがって、ストーリーのせいではない。
 きみは手紙の最初で言っていることと、あとで言っていることと、ちょとクイ違ってるみたい。赤テントや、99や、屋男は、ステージが箱なのではなく、芝居小屋が、箱なのだ。それで、第4のカベっていうのは、そういう、客と一体となったexciteをやめて、U-I効果を考えたブレヒトが、言ったのだと思う。つまり第4のカベってのは、ステージと客との間のオケピットの所にあるんじゃなくて、役者の真ん前と、客の目の所にあるんだ。つまり、あくまでも役を演ずることでね。役になり切ることではない。役になり切ると、ステージと客席との間に境ができるのだ。そんな時、役者はゲスとなって、鑑に入れられた操り人形になる。そして客は、それを、高みから、のぞき見るわけだ。
 ぼくなんか、きみの[屋男]の美しい絵も篠原氏の絵も、絵で立体化しないから、不安になって、その化粧は、ふんいきをつくる前に、役者を引き立ててしまう。次にふんいきで、最後にステージの飾り、逆の順序が、ステージに箱の奴。
 不安て奴は期待につながるけれど、最初からそうだと、唐みたく、だらける。本来なら(99は別として、99はあれで十二分)、春の[銀河鉄道の夜]は、あの材木が、ガラガラと、動き出した時、不安とともに、狂喜なのだろう。最初から、あの後ろがパクッと開いて汽車が行ったり来たりでは、アイデア、大道具倒れだ。映画には、こんな格言もある。最初、客を不安にさせて(何が始まるかわからない期待)、中ほどは肩を凝らさず、くつろいで話が進み、最後に、アッと言わせて、終る。これ、古典的なんだけどね。まったくメチャクチャ山もくそもない奴だけどすごく、味のある奴、これは役者がすごくうまいか、もしくは、監督の能力が、おっそろしく、意味深くできている必要がある。最後に、森島がいうタタミコミだけど、これは、ほとんどアイデアで決まる。つまり、客に息継ぎをさせないことだ。それと、すごい力がいる。こういうことをやる時は、アイデアと、すごい動員力、機動力がいる。でも、こういうの意外と思い出だけで終るんだよなあ。別の経験でいけば、タタミコミは[初めて恋人と歩いた縁日]で、古典的な奴は、森島に会ったりして得たこととかサリンジャーの[笑い男]を読んだこととか、そういうことで、2番目の奴は、[2001]を幼いころ見た、ということなんだな。三つとも、出会った時は、同じようにショックなんだわ。特にタタミコミについては...。でも。
 まあ、赤テントの[糸姫]を見てからにしてくれ。



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[三月劇場]


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